いた。葉子は人の少ない時黒い羽織を着てよくそこへ入って行った。そして煖房《だんぼう》の熱《ほて》りから少し離れたところで、アメリカの流行雑誌などを見ていたものだが、外人たちの雰囲気《ふんいき》も嫌《きら》いではなかった。
「先生……。」
 彼女はそう言って、時々人気のない煖房の前へ彼を誘い出すこともあったが、大抵二人きりでいる部屋が気詰りになって来ると、うそうそ廊下へ出て行くのであった。庸三はK――博士とのなかを、朧《おぼろ》げに感得していたものの、先きは人も知った人格者であり、尊《とうと》いあたりへも伺候して、限りない光栄を担《にな》っている博士なので、もし葉子の嬌態《きょうたい》に魅惑された人があるとしても、それは病院の他の若い人か、それとも、例の婦人雑誌の記者だろうかとも思ったり、または真実はやっぱり刀を執ってくれたK――博士のようにも想像されたりした。が、庸三も彼女の物質上のペトロンを失ったことに、多少の責任を感じてもいたし、物質的にまだ一度もこれという力を貸していないことに相当|負《ひ》け目も感じていたので、そんな点では決してぼんやりしていない彼女なので、何かの手蔓《てづる》を見つけて、その方の工作も進めつつあるのだろうという気もしながら、とかく不安や嫉妬《しっと》に理性を失いがちな彼ではあったが、そうした憂鬱《ゆううつ》な苦悩のなかにも、彼としては八方から襲いかかって来る非難のなかに、彼女の存在を少しでも文壇的に生かしたいと思った。恋愛も恋愛だが、この崩れかかって来た恋愛に、何か一つの目鼻がつき、滅茶々々《めちゃめちゃ》になった彼の面目《めんぼく》が多少なりとも立つものとすれば、それは彼女の才能を伸ばすことよりほかの手はなかった。
 冬の日差しの暖かい静かな町へ、二人は時々散歩に出かけたが、庸三に寄り添って歩いている葉子はとかく神経的な感傷に陥いりがちで、鈍感な彼に何かを暗示するような謎《なぞ》の言葉をかけることもあった。ちょっと特色のあるホテルの食事にも飽きると、遊びに来た若い人たちをも誘って、ガアドの先きにある賑《にぎ》やかな小路の小料理屋へ入って、海岸の町らしい新鮮な蟹《かに》や貝の料理を食べることもたびたびあった。ちょうどプロレタリア文学の萌芽《ほうが》が現われかけて来たころで、若い人々の文学談にもそんな影が差していたが、話の好きな葉子はことに若
前へ 次へ
全218ページ中116ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング