床の間に置き忘れてあるじゃありませんか。」
「ある人とは?」
小夜子は独逸《ドイツ》の貴族の屋敷に、老母もろとも同棲《どうせい》することになってから、かつては幾年かのあいだ、一緒に世帯《しょたい》をもったことのあるその男の名前や身分を、庸三に語るだけの興味すらすでに失っていた。
話しているうちに五反田へ着いた。そして長々と生垣《いけがき》を結い繞《めぐ》らした、木立の陰のふかい××閣の大門の少し手前のところで、小夜子は車を止めさせ、運転士をやって訊《き》かせてみたが、そういう方はまだ見えていないというのであった。それと同時に、ぱっとヘッドライトの明りが差して、一台の自動車が門から出て来てこっちへカアブして来た。そのルウム・ライトの光の下に、野暮くさい束髪頭の黒羅紗《くろラシャ》のコオトに裹《くる》まって、天鵞絨《ビロード》の肩掛けをした、四十二三のでぶでぶした婦人の赭《あか》ら顔が照らし出されていたが、細面《ほそおも》の、ちょっときりりとした顔立ちの洋服の紳士が、俛《うつむ》きながら煙草《たばこ》にマッチを摺《す》りつけていた。庸三は何か胸糞《むなくそ》の悪いような感じで、この家の気分もおよそ解《わか》るような気がした。今まで庸三は、あの風采《ふうさい》の立派な博士の傍《そば》で、わざと原稿など書いて見せて、あるいは得意そうに読んでみせたりして、無邪気に女流作家の矜《ほこ》りを誇示しようとしている、葉子の顔や様子を、その一つの部屋のなかに幻想していたのだったが、それもあえなく形を消してしまった。
「こういう時は、こうでもしないとこの先生の気持はおさまらない。」
小夜子がそう言っているように思えた。
やがて二人は憑《つ》いていた狐《きつね》が落ちたような気持で、帰路に就《つ》いた。
「莫迦《ばか》らしい、十二円損してしまいましたね。」
川ぞいの家の門の前で自動車をおりる時、小夜子はそう言って笑った。
するとその夜おそく、庸三がK――青年と子供をつれて、春らしく媚《なま》めいた空の星を眺めながら、埃《ほこり》のしずまった通りを歩いたついでに、ふと例の旅館の重い戸を開けて、白い幕の陰にいた女中にきいてみると、梢さんがいるというのであった。
「もうお寝《やす》みになっていますけれど……。」
それを聞きすてて、三人でどかどか上がって行った。
果して葉子は寝床に
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