ぎ出そうとしても、そんな問題には皆目触れることができなかった。もちろん庸三は小夜子からも、ほんの梗概《こうがい》だけしか解っていない過去を嗅ぎ出そうとして、油断なく神経を働かしているのだったが、過去どころか、現在の彼女の生活の裏さえ全く未知の世界であった。庸三にはとかく人に興味を持ちすぎる悪い習慣もあった。
そのころ銀座では、あまり趣味のよくない大規模のカフエが熾《さか》んに進出しはじめて、あの辺一帯の空気をあくどい色に塗りあげ、弱い神経の庸三などは、その強烈な刺戟に目が眩《くら》むほどだったが、高声機にかかったジャズの騒音も到《いた》るところ耳を聾《つんぼ》にした。ナンバワン級の女給の噂《うわさ》などが娯楽雑誌や新聞を賑《にぎ》わせ、何か花々しい近代色が懐《ふとこ》ろの暖かい連中を泳がせていた。小夜子のところへ雪崩《なだ》れこんで来るのも、時にはそういった連中の一部であったが、庸三も仲間の人たちと会か何かの崩れに、たまにはそういう新らしい享楽の世界へ入ることはあっても、カクテル一杯を呑むのに骨が折れるくらいなのに、性格的な孤独性と時代の距離があるので、いつも戸惑いしたような感じしかなかった。すべてそういった享楽の世界では、彼はいつもピエロの寂しい姿を自身に見出《みいだ》すだけであった。肥ったマダムの家だけは、ほどよく静かに酒を呑んでいる、インテリ階級の少数の人と顔が合うだけだったので、銀ぶらには適当であったが、彼はそうたびたび川沿いの家へ足を運ぶことを、葉子に感づかれて、痛くもない腹を探ぐられるのもいやだったし、そうやって彷徨《さまよ》っていても、心の落着きはどこにも求められなかった。
書斎に帰っていると、門の開く音がして、続いて玄関の硝子戸《ガラスど》の開く音がした。庸三は、ちょうど子供を相手に、葉子の噂をしているところだったが、そこへ彼女が割り込んで来て、部屋がにわかに賑やかになった。葉子は今日も病院へ行って、入院中から懇意になった若い医員の二三の人たちと、神田まで食事をしに行って、やがてその連中と別れてから、シネマ・パレスで「闇《やみ》の光」の映画を見て来たというのだった。見ようによっては何か怪しい興奮と疲労の迹《あと》かとも思われないこともないような紅潮が顔に差していたが、芸術の前にはとかく感激しやすい彼女のことなので、それは真実かも知れないのであった
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