葉子は立てた長い両膝《りょうひざ》を手でかかえながら、呟《つぶや》いた。
「また先生のとこへ来ようかな。子供をお母さんに預けて、田舎《いなか》へ還《かえ》して……。」
「来てもいいよ。」
 庸三は答えた。また何か起こるに違いない、――彼はそれも思わないわけにはいかなかったが、差し当たりそうするよりほかなかった。毒気のない態度も感じが悪くなかった。
 しかし葉子は前よりも、少し用心深かった。庸三の部屋へ入って来るにしても、朝から晩まで彼の傍《そば》に居きりにすることは、何かと不便であった。まだ本統には見切りをつけていない秋本との交渉を、自分が直接に開始する場合にも、田舎へ還った母を通しての間接の場合にも、庸三に打ち明けられないことも出て来るに違いなかった。それでなくても息をぬく場所が、どこかに無くてはならなかった。そんな場合の用心に、葉子は隣りの下宿に一と部屋取っておくことにして、荷物をそっくり裏の家へ運びこんで来た。例の箪笥《たんす》と鏡台が庸三の部屋へ持ち込まれて、化粧品の香がその日から仄《ほの》かに部屋に漂った。

      十四

 葉子はそのころになっても、なお婦人雑誌の連載物を書きつづけていたが、初めの意気込みほど人気は湧《わ》き立たなかった。もともと雑誌の方では、とかく世間の問題をおこしがちな彼女の過去現在の、好いにつけ悪いにつけ、何か花やかな雰囲気《ふんいき》を周囲に投げつつあるところに、ジャアナリステックな価値を見出《みいだ》そうとしたものであったが、一回二回と書かしてみると、思ったよりも好いので、一層|力瘤《ちからこぶ》を入れることにはなったが、庸三と取り組んでの恋愛事件がひどく世間の感情を害していた最中でもあったので、情熱的な彼女の作品も大向うから声はかからなかった。もちろん淡い夢のような作品その物にも、彼女独得の情熱と情緒《じょうしょ》がいかに溢《あふ》れていたにしても、一般に受ける性質のものではなかった。ちょうど社会批評家としてすでに一地歩を占めている、ある婦人の作品と並んでいたが、葉子はそれを自分の作品と読み比べてみて、何となく厭味《いやみ》で古いと思っていたし、少しは悪くも言ってみたいこともあった。
 無精な庸三のことなので、その作品に関して時々話をしかけられても、読んだのは一回きりで、解《わか》らないところを「これはどういうんだ」
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