かった。

 今庸三は文字どおり胸のときめくようなある一夜を思い出した。
 その時庸三は、海風の通って来る、ある郊外のコッテイジじみたホテルへ仕事をもって行こうとして、ちょうど彼女がいつも宿を取っていた近くの旅館から、最近母を亡くして寂しがっている庸三の不幸な子供達の団欒《だんらん》を賑《にぎ》わせるために、時々遊びに来ていた彼女――梢《こずえ》葉子を誘った。
 庸三は松川のマダムとして初めて彼女を見た瞬間から、その幽婉《ゆうえん》な姿に何か圧倒的なものを仄《ほの》かに感じていたのではあったが、彼女がそんなに接近して来ようとは夢にも思っていなかった。松川はその時お召ぞっきのぞろりとした扮装《ふんそう》をして、古《いにし》えの絵にあるような美しい風貌《ふうぼう》の持主であったし、連れて来た女の子も、お伽噺《とぎばなし》のなかに出て来る王女のように、純白な洋服を着飾らせて、何か気高い様子をしていた。手狭な悒鬱《うっとう》しい彼の六畳の書斎にはとてもそぐわない雰囲気《ふんいき》であった。彼らは遠くからわざわざ長い小説の原稿をもって彼を訪ねて来たのであった。それは二年前の陽春の三月ごろで、庸三の庭は、ちょうどこぶし[#「こぶし」に傍点]の花の盛りで、陰鬱《いんうつ》な書斎の縁先きが匂いやかな白い花の叢《くさむら》から照りかえす陽光に、春らしい明るさを齎《もたら》せていた。
 庸三は部屋の真中にある黒い卓の片隅《かたすみ》で、ぺらぺらと原稿紙をめくって行った。原稿は乱暴な字で書きなぐられてあったが、何か荒い情熱が行間に迸《ほとばし》っているのを感じた。
「大変な情熱ですね。」
 彼は感じたままを呟《つぶや》いて、後で読んでみることを約束した。
「大したブルジョウアだな。」
 彼はそのころまだ生きていて、来客にお愛相《あいそ》のよかった妻に話した。作品もどうせブルジョウア・マダムの道楽だくらいに思って、それには持前の無精も手伝い、格にはまらない文章も文字も粗雑なので、ただ飛び飛びにあっちこっち目を通しただけで、通読はしなかったが、家庭に対する叛逆《はんぎゃく》気分だけは明らかに受け取ることができた。彼は多くの他の場合と同じく、この幸福そうな若い夫婦たちのために、躊躇《ちゅうちょ》なく作品を否定してしまった。物質と愛に恵まれた夫婦の生活が、その時すでに破産の危機に瀕《ひん》してい
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