、そこが学校を出たての葉子が、音楽学校入学志望で、かつてしばらく身を寄せていた処《ところ》であったということも、葉子を躊躇《ちゅうちょ》させたものに違いなかった。
小夜子の家では、いつもと違って、サアビスぶりはあまりよくなかった。そして今上がりぎわに、ちょっと薄暗い廊下のところでちらとその姿を見かけた小夜子が、盛装して二人の前に現われるのに、大分時間がかかった。二人は照れてしまったが、葉子は部屋の空虚を充《み》たすために、力《つと》めて話をしかけた。そこへ真白に塗った小夜子が、絵羽の羽織を着て嫻《しと》やかに入って来た。そして入口のところに坐った。
「梢《こずえ》さんでしょう。」
小夜子はそう言って、挨拶《あいさつ》すると、今夜は少しお寒いからと、窓の硝子戸《ガラスど》を閉めたりして、また入口の処にぴったり坐ったが、表情が硬《かた》かった。
葉子は立って行って、小夜子と脊比《せいくら》べをしたりして、親しみを示そうとしたが、いずれも気持が釈《と》かれずじまいであった。
「やっぱりそうかなあ。」
庸三は後悔した。するうち小夜子を呼びに来た。客が上がって来たらしかった。
「私今夜ここで書いてもいい?」
葉子は書く仕事を持っていることに、何か優越を感ずるらしく、庸三が頷《うなず》くと、じきに玄関口の電話へ出て行って、これも新調の絵羽の羽織や原稿紙などを、自動車で持って来るように、近所の下宿屋を通して女中に吩咐《いいつ》けた。
しかし間もなく錦紗《きんしゃ》の絞りの風呂敷包《ふろしきづつ》みが届いて、葉子がそのつもりで羽織を着て、独りで燥《はしゃ》ぎ気味になったところで、今夜ここで一泊したいからと女中を呼んで言い入れると、しばらくしてから、その女中がやって来て、
「今夜はおあいにくさまですわ。少し立て込んでいるんですのよ。」
庸三はその素気《そっけ》なさに葉子と顔を見合わした。やがて自動車を呼んで、そこを出てしまった。
「小夜子さん光一《ぴかいち》でなきゃ納まらないんだ。」
葉子は車のなかで言った。
ある夜も小夜子はひどく酒に酔っていた。
酒のうえでの話はよくわからなかったけれど、片々《きれぎれ》に口にするところから推測してみると、とっくに切れてしまったはずのクルベーが、新橋の一芸者を手懐《てなず》けたとか、遊んでいるとかいうようにも聞こえたし、寄越《よ
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