すると暗い影が差して来たが、師匠に対する葉子の立場を考えて強《し》いても安心しようとした。彼こそ彼女の恰好《かっこう》な相手だという感じは、葉子と一緒に師匠を初めて訪問した時の最初の印象でも明らかであり、この青年とだったら、いくら移り気の葉子でも、事によると最後の落着き場所として愛の巣が営めるのではないかという気もしたし、敏捷《びんしょう》な葉子と好いモダアニストとして、今売り出しの彼とのあいだに、事が起こらなければむしろ不思議だという感じもしないことはなかったが、一つの頼みだけはあった。
「あれなら本当の葉子のいい相手だ。」
庸三はそれを口にまで出した。ちょうど文壇に評判のよかった「肉体の距離」というその青年の作品が、そうした葉子の感情を唆《そそ》るにも、打ってつけであった。絶えず何かを求め探している葉子の心は、すでに娘の預り主の師匠にひそかに叛逆《はんぎゃく》を企てているに違いなかったが、庸三の曇った頭脳では、そこまでの見透かしのつくはずもなかった。たといついたにしても、病人が好い博士《はかせ》の診断を怖《おそ》れるように、彼はできるだけその感情から逃避するよりほかなかった。結婚することもできないのに、始終風車のように廻っている葉子のような若い女性の心を、老年の、しかも生活条件の何もかもがよくないだらけの、庸三のような男が、永久に引き留めておける理由もないことは、運命的な彼の悩みであったが、また悽愴《せいそう》なこの恋愛がいつまで続くかを考えるたびに、彼は悲痛な感じに戦慄《せんりつ》した。みるみる彼の短かい生命は刻まれて行くのだった。
お浚《さら》いが済んだ後で、その青年はじめ二三の淑女だちとともに、庸三と葉子も、軽い夜食の待遇《もてなし》を受けて、白いテイブル・クロオスのかかった食卓のまわりに坐って、才気ばしったお愛相《あいそ》の好い師匠を中心に、しばし雑談に時を移したが、その間も葉子は始終|俛《うつむ》きがちな蒼白《あおじろ》い顔に、深く思い悩むらしい風情《ふぜい》を浮かべて、黙りとおしていた。それが病気のためだとしても、そんなことは前後に珍らしかった。
それと今一つは、手術場での思いがけない一つの光景が、葉子の、しかしそれはすべての女の本性を、彼の目にまざまざ見せてくれた。
庸三はその時担架に乗って、病室から搬《はこ》び出されて行く葉子について、つ
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