ぶ》しのかかった古い部屋を今更のように見廻した。
「この家もどうかしなきゃ。」
「そうですね、もしお建てになるようでしたら、あの大工にやらしてごらんなさいましよ。あれは広小路の鳥八十《とりやそ》お出入りの棟梁《とうりょう》ですの。」
 大ブルジョアのその鳥料理屋が彼女の彼と、何かの縁辺になることも、その後だんだんに解《わか》って来た。
 その時であった、凝ったその鳥料理屋の建築や庭を見いかたがた末の娘もつれて、晩飯を食べに行ったのは。美事な孟棕《もうそう》の植込みを遠景にして、庭中に漫々とたたえた水のなかの岩組みに水晶|簾《すだれ》の滝がかかっていて、ちょうどそれが薄暮であったので、青々した寒竹の茂みから燈籠《とうろう》の灯《ひ》に透けて見えるのも涼しげであった。無数の真鯉《まごい》緋鯉《ひごい》が、ひたひた水の浸して来る手摺《てすり》の下を苦もなげに游泳《ゆうえい》していた。桜豆腐、鳥山葵《とりわさ》、それに茶碗《ちゃわん》のようなものが、食卓のうえに並べられた。黒の縮緬《ちりめん》の羽織を着て来た清楚《せいそ》な小夜子の姿は、何か薄寒そうでもあったが、彼女はほんのちっとばかし箸《はし》をつけただけであった。
 咲子は人も場所も、何か勝手がちがったようで、嬉《うれ》しそうでもなかったが、始終にこにこしていた。
「いつかクルベーさんと、何かのはずみで、急に日光へ行くことになって、上野駅へ来たのはよかったけれど、紙入れを忘れて来てしまったんですのよ。時間はないし、仕方がないから私がこの家へ来て事情を話すと、黙って三百円立て替えてくれたことがありましたっけ。」
 そんな話も出たりして、帰りに三人で夜店の出ている広小路をあるいた。小夜子は子供の手を引いていたが、そうして歩くにも、何か人目を憚《はばか》るらしいふうにも見えるのであった。
 ふと葉子の話が出た。
「僕もつくづくいやになった。止《よ》そうと思う。」
「止しておしまいなさい。」
「あと君が引き請ける?」
 頼りなさそうな声で、
「引き請けます。」

 今、庸三は別にそれを当てにしているわけではなかったけれど、葉子と別れるには、そうした遊び相手のできた今が時機だという気もしていたので、葉子を迎えに行くのを怠《ずる》けようとして、そのまま蚊帳《かや》のなかへ入って、疲れた体を横たえた。彼はじっと眼を瞑《つぶ》ってみた
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