、筒袖《つつそで》の浴衣《ゆかた》一枚で仕事をしていたのだったが、雀《すずめ》の囀《さえず》りが耳につく時分に書きおわったまま、消えやらぬ感激がまだ胸を引き締めていた。
 電報を手にした時、彼は待っていたものが、到頭やって来たという感じもしたが、あわててもいた。
「……一年や二年、先生のお近くで勉強できるほどの用意もできましたので……」
 そう言った彼女の手紙を受け取ったのも、すでに三日四日も前のことであったが、立て続けに二つもの作品を仕上げなければならなかったので、あれほど頻繁《ひんぱん》に手紙を彼女に書いていた庸三も、それに対する返辞も出さずにいた。真実のところ彼はこの事件に疲れ果てていた。享楽よりも苦悩の多い――そしてまたその苦悩が享楽でもあって、つまり享楽は苦悩だということにもなるわけだし、苦悩がなければ倦怠《けんたい》するかもしれないのであったが、それにしても彼はここいらで、どうか青い空に息づきたいという思いに渇《かわ》いていた。
 この事件の幕間《インタアブアル》として、彼は時々水辺の小夜子の家《うち》へも、侘《わび》しさを紛らせに行った。その時分にはいつも中の間とか茶の間とかにいた、姉も田舎《いなか》へ帰ってしまって、彼も座敷ばかりへ通されていなかった。時間になると小夜子は風呂《ふろ》へ入って、それから鏡の前に坐るのであった。顔をこってり塗って、眉《まゆ》に軽く墨を刷《は》き、アイ・シェドウなどはあまり使わなかったが、紅棒《ルウジュ》で唇《くちびる》を柘榴《ざくろ》の花のように染めた。目も眉もぱらっとして、覗《のぞ》き鼻の鼻梁《びりょう》が、附け根から少し不自然に高くなっているのも、そう気になるほどではなく、ややもすると惑星のように輝く目に何か不安定な感じを与えもして、奈良《なら》で産まれたせいでもあるか、のんびりした面差《おもざ》しであった。美貌の矜《ほこ》りというものもまだ失われないで、花々しいことがいくらも前途に待っているように思えた。彼女は何かやってみたくて仕方がなかった。小説を書くということも一つの願望で、庸三は手函《てばこ》に一杯ある書き散らしの原稿を見せられたこともあった。
「私は何でもやってできないことはないつもりだけれど、小説だけはどうもむずかしいらしいですね。」
「男を手玉に取るような工合《ぐあい》には行かない。」
「あら、そんなこ
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