ぎわへ小突きまわすようにした。
「御免なさい、御免なさい。そんなに怒らないでよ。私いけない女?」
やがて庸三は離れた。そして椅子に腰かけた。
そうしている処へ、瑠美子が「まま、まま」と声かけながら段梯子《だんばしご》をあがって来た。
「瑠美ちゃん下へ行ってるのよ。」葉子は優しく言って、
「まま今おじちゃんにお話があるの。」
やがて葉子はそのことはけろりと忘れたように、話を転じた。妹が近々|許婚《いいなずけ》の人のところに嫁《とつ》ぐために、母に送られて台湾へ行くことになったことだの、母の帰るまでゆっくり逗留《とうりゅう》していてかまわないということだの――。
庸三は灰色の行く手を感じながらも、朗らかに話している葉子の前にいるということだけでも、瞬間心は恰《たの》しかった。すがすがしい海風のような感じであった。
九
庸三の今度の訪問は、滞在期間も前の時に比べてはるかに長かったし、双方親しみも加わったわけだが、その反面に双方が倦怠《けんたい》を感じたのも事実で、終《しま》いには何か居辛《いづら》いような気持もしたほど、周囲の雰囲気《ふんいき》に暗い雲が低迷していることも看逃《みのが》せないのであった。帰りの遅くなったのは、最近になってやっとはっきり自覚するようになった葉子の痔瘻《じろう》が急激に悪化して、ひりひり神経を刺して来る疼痛《とうつう》とともに、四十度以上もの熱に襲われたからで、彼はそれを見棄《みす》てて帰ることもできかね、つい憂鬱《ゆううつ》な日を一日々々と徒《いたず》らに送っていた。
最初着いた時分には、よく浜へも出てみたし、小舟で川の流れを下ったり、汽車で一二時間の美しい海岸へ、多勢《おおぜい》でピクニックに行ったりしたものであった。いろいろの人が持ち込んで来る色紙や絹地に、いやいやながら字を書いて暮らす日もあった。その人たちのなかには、廻船問屋《かいせんどんや》時代の番頭さんとか、葉子の家の田地を耕しているような親爺《おやじ》さんもあった。だだっ広い茶の間を駈《か》けて歩いているのは葉子の別れた良人《おっと》によく肖《に》ている、瑠美子の幼い妹や弟たちで、それに葉子の末の妹なども加わって、童謡の舞踊が初まることもあった。葉子はさも幸福そうに手拍子を取って謳《うた》っていた。子供の手を引いて盛り場の方へ夜店を見にいくこともあれば
前へ
次へ
全218ページ中60ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング