に、ついタキシイを駆ったものだったが、客が二組もあって、小夜子も少し酒気を帯びていた。庸三は別に女を呼ぶわけではなかった。ずっと後に、友達と一緒に飯を食いに行く時に限って、芸者を呼ぶこともあったが、彼自身芸者遊びをするほど、気持にも懐《ふとこ》ろにも余裕があるわけではなかった。
「御飯を食べにいらして下さるだけで沢山ですわ。芸者を呼んでいただいても、私の方はいくらにもなりませんのよ。」
小夜子の目的はほかにあった。追々に彼の仲間に来てもらいたいと思っていた。それに彼女は開業早々の商売の様子を見いかたがた田舎《いなか》から出て来ている姉を紹介したりして、何かと彼の力を仮《か》りるつもりらしかった。昨夜も彼女は彼の寝間へ入って来て、夜深《よふけ》の窓の下にびちゃびちゃ這《は》いよる水の音を聞きながら、夜明け近くまで話していたが、それは文字通りの話だけで何の意味があるわけでもなかった。すれすれに横たわっていても指一つ触れるのではなかった。電気|行燈《あんどん》の仄《ほの》かな光りのなかで、二人は仰むきに臥《ね》ていた。真砂座《まさござ》時代に盛っていて看板のよかったこの家《うち》を買い取るのにいくらかかったとか、改築するのにいくらいくらいったとかその金の大部分が、今、中の間で寝ている姉の良人《おっと》、つまり田舎の製茶業者で、多額納税者である義兄に借りたもので、月々利子もちゃんと払っているのであった。不思議と彼女に好い親類のあることがその後だんだんわかって来たのであったが、小夜子はそれを鼻にかけることもなかった。三菱《みつびし》の理事とか、古河銅山の古参とか、または大阪の大きな工場主とか。彼女が暗い道を辿《たど》って来たのは、父が違うからだということも想像されないことではなかったが、それにしても彼女は十六か七で、最初のライオンの七人組の美人女給の一人として、生活のスタアトを切って以来、ずっと一本立ちで腕を磨《みが》いて来ただけに、金持の親類へ寄って行く必要もなかったし、拘束されることも嫌《きら》いであった。芝の神明《しんめい》に育った彼女は、桃割時代から先生の手におえない茶目公であったが、そのころその界隈《かいわい》の不良少女団長として、神明や金刀毘羅《こんぴら》の縁日などを押し歩いて、天性のスマアトぶりを発揮したものだった。
庸三が床から起きて、廊下から薄暗い中の間
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