僕の母はほんとうに寛容な心をもつた人なんだ。」
「それでも女郎と一緒になるといへば、きつと吃驚《びつくり》するわ。」
 新造が入つて来た。

 一週間ほどたつと、男はそれだけの金を耳をそろへて持つて来たが、女は其のうち幾分を取つただけで、意見をして幾《ほと》んど全部を返した。

 夏になつてから、その学生は田舎《ゐなか》へ帰省してしまつた。勿論その前にも一二度来たが、女は何だか悪いやうな気がして、わざと遠ざかるやうに仕向けることを怠らなかつた。勿論彼女は、飲んだくれの父のために、不運な自分や弟たちが離れ/″\になつて世のなかの酸苦をなめさせられたことを、身に染《し》みてひどく悲しんでゐた。彼女の唯一の骨肉であり親愛者である弟も、人づかひの劇《はげ》しい大阪の方で、※[#「兀にょう+王」、第3水準1−47−62]弱《よわ》い体で自転車などに乗つて苦使《こきつか》はれてゐた。彼女は時々彼に小遣などを送つてゐた。病気をして、病院へ入つたと云ふ報知《しらせ》の来たときも、退院してしばらく田舎へ帰つたときにも、彼女は出来るだけ都合して金を送つてゐた。最近彼の運も少しは好くなつてゐたが、客として上《あが》つてくる若いお店者《たなもの》などを見ると、つい厭な気がして、弟の境涯《きやうがい》を思ひやつた。そんな事が妙に心に喰入つてゐたので、自分の境涯に酔ふと云ふやうな事は困難であつた。彼女は所在のない心寂しいをりなどには、針仕事を持出して、襦袢《じゆばん》や何かを縫つたり又は引釈《ひきと》きものなどをして単調な重苦しい時間を消すのであつたが、然うしてゐると牢獄のやうな檻《をり》のなかにゐる遣瀬《やるせ》なさを忘れて、むかし多勢の友達と裁盤《たちばん》に坐つてゐたときのやうなしをらしい自分の姿に還つて、涙ぐましい懐《なつ》かしさを感ずるのであつた。しかし客によつては、色気ぬきに女を面白く遊ばせて、陽気に飲んで騒いで引揚げて行く遊び上手もあつて、そんな座敷では彼女も自然に心が燥《はしや》いで、萎《な》えた気分が生き生きして来た。しかし体の自由になる時が近づいて来ると、うか/\過した五六年の月日が今更に懐かしいやうで、世のなかへ放たれて行かなければならぬのが、反《かへ》つて不安でならなかつた。どこを見ても、耀《かゞや》かしい幸運が自分を待つてゐてくれさうには見えなかつた。
 大学生と別れてから、彼から一度手紙をもらつたきりで、こつちからは遠慮して……寧《むし》ろ相手になるのが大人気《おとなげ》ないやうな気もして、また別に書くやうな用事もなかつたので、いくらか気にかゝりながら返事を怠つてゐた。しかし其と同時に、余り自分を卑下しすぎたり、彼の心の確実さを疑ひすぎるやうな気がして、折角《せつかく》嚮《む》いて来た幸運を、取逃してしまつたやうな寂しさを感じた。取止めのない男の気持や言草《いひぐさ》が何だかふは/\してゐて、手頼《たより》ないやうにも思はれたが、真実《ほんとう》に自分を愛してくれてゐるのは、あの男より外にはないやうに思はれた。彼の好意を退《しりぞ》けたのが、生涯の失策だと云ふ気がした。そして其の考へが段々彼女の頭脳《あたま》に希望と力を与へてくると同時に、彼の周囲や生活を分明《はつきり》見定めたいと云ふ望みが湧いて来た。慈愛の深い彼の老いた母親や、愛らしい彼の弟が世にも懐かしいもののやうにさへ思はれた。
 或日の午後、彼女は私《そつ》と新造《しんぞ》に其事を話して、廓《くるわ》を脱け出ると土産物を少し調《とゝの》へて、両国から汽車に乗つた。近頃彼女は、内所の上さんや新造と一緒に――時としては一人で、時々|外出《そとで》してゐて、東京の地理もほゞ知つてゐたし、千葉や成田がどの方面にあるかくらゐの智識はもつてゐた。彼の妹は今年十九だとかいふので、何か悦《よろこ》びさうなものをもつて行きたいと思ふと、ふら/\と遽《には》かに思ひついたことなので、考へてゐる隙《ひま》もなかつたところから、客から貰つたきり箪笥のけんどんや抽斗《ひきだし》の底に仕舞つておいた、半玉でも持ちさうな懐中化粧函だの半衿《はんえり》だのを、無造作に紙にくるんで持つて来た。それに浅草で買つた切山椒《きりざんせう》などがあつた。
 避暑客の込合ふ季節なので、停車場は可也《かなり》雑沓《ざつたふ》してゐたが、さうして独りで旅をする気持は可也心細かつた。十九から中間《ちゆうかん》の六年間と云ふものを、不思議な世界の空気に浸《ひた》つて、何か特殊な忌《いま》はしい痕迹《こんせき》が顔や挙動に染込《しみこ》んででもゐるやうに、自分では気がさすのであつたが、周囲の人と自分とを※[#「鼻+嗅のつくり」、第4水準2−94−73]《か》ぎわけ得るやうな人もなささうに見えた。実際また不断からそれを心がけてもゐた。
 海岸にちかい或町の停車場へおりたのは、暑い七月の日も既に沈んで、汐《しお》つぽい海風がそよ/\と吹き流れてゐる時分であつた。町には電気がついて、避暑客の浴衣姿《ゆかたすがた》が涼しげに見えた。
 男の家《うち》は、この海岸から一里ほど奥の里の方にあつた。彼女は三時間ばかりの汽車で疲れてもゐたし、町で宿を取つて、朝早く彼を訪《たづ》ねようと思つたが、宿はどこも一杯で、それに一人旅だと聞いて素気なく断わられたので、為方《しかた》なしいきなり訪ねることにした。
 俥《くるま》はやがて町端《まちはづれ》を離れて、暗い田舎道へ差懸《さしかゝ》つた。黝《くろ》い山の姿が月夜の空にそゝり立つて、海のやうに煙つた青田から、蛙が物凄く啼《な》きしきつてゐた。太鼓や三味の音色ばかり聞きなれてゐた彼女の耳には、人間以外の声がひどく恐しいもののやうに、神経を脅《おびや》かした。高い垣根を結《ゆは》へた農家がしばらく続いた。行水《ぎようずゐ》や蚊遣《かやり》の火をたいてゐるのが見えたり、牛の啼声《なきごゑ》が不意に垣根のなかに起つたりした。
 道が段々山里の方へ入つて行くと、四辺《あたり》が一層|闃寂《ひつそり》して来て、石高《いしだか》な道を挽《ひ》き悩んでゐる人間さへが何《ど》んな心をもつてゐるか判らないやうに怕《おそ》れられた。灯の影もみえない藪影や、夜風にそよいでゐる崖際《がけぎは》の白百合《しらゆり》の花などが、殊《こと》にも彼女の心を悸《おび》えさせた。でも、彼の家を車夫までが知つてゐるのでいくらか心強かつた。
 彼の屋敷は山寺のやうな大きな門構や黒い塀《へい》やに取囲まれて、白壁の土蔵と並んで、都会風に建てられた二階家であつたが、門の扉がぴつたり鎖《とざ》されて、内は人気《ひとけ》もないやうに闃寂《ひつそり》してゐた。それに石段の上にある門と住居《すまひ》との距離も可也遠かつたし、前には山川の流れが不断の音をたゝへて、門内の松の梢にも、夜風が汐の遠鳴のやうに騒《ざわ》めいてゐた。しかし生活《くらし》の豊かな此辺は人気《にんき》が好いとみえて、耳門《くゞり》を推《お》すと直ぐ中へ入ることができた。女はちよいと気が臆《おく》せて、其のまゝ其|俥《くるま》で引返へさうかと思案したが、四里も五里もの山奥へ来たやうな気がしてゐたので、引返す気にもなれなかつた。で、玄関の土間へ立つて、思ひ切つて案内を乞《こ》うてみたが、誰も応じなかつた。遠い奥の方から明《あかり》がさして人声が微《かす》かにしてゐるやうであつた。古びた広い家《うち》ががらんとしてゐた。何処《どこ》からか胸のわるい牛部屋の臭気が通《かよ》つて来た。
 彼女は失望と不安とを強《し》ひて圧《おさ》へるやうにして、門の内を仕切つてある塀《へい》についてゐる小い門の開《あ》いてゐたのを幸ひに、そつと其処から庭へ入つて見た。庭は木の繁みで微暗《ほのぐら》く、池の水や植木の鉢などが月明りに光つてゐた。開放《あけはな》した座敷は暗かつたが、籐椅子《とういす》が取出されてあつたり、火の消えた盆燈籠《ぼんどうろう》が軒に下つてゐたりした。ふと池の向ひの木立の蔭に淡赤《うすあか》い電燈の影が、月暈《つきのかさ》のやうな円を描いて、庭木や草の上に蒼白《あをじろ》く反映してゐるのが目についたが、それは隠居所のやうな一|棟《むね》の離房《はなれ》で、瓦葺《かはらぶき》の高い二階建であつた。そして其処に若い男が浴衣《ゆかた》がけで、机に坐つて読書に耽《ふけ》つてゐた。顔は焦《や》けてゐたが、それは疑ひもなく彼であつた。
 ふと窓さきへ立つた彼女の白い姿を見たとき、彼はぎよつとしたやうに驚いた。
「私よ。私来たのよ。」彼女は嫣然《につこり》して見せた。
「誰かと思つたら君だつたのか。僕はほんとうに脅《おど》かされてしまつた。」さう言つて彼は彼女を今一応|凝視《みつ》めた。
「わたし何だか急に来て見たくなつて、私《そつ》と脱出《ぬけだ》して来たの。まさかこんなに遠い処とは思はないでせう、来てみて驚いてしまつたわ。」
「ほう、そんな好きな真似ができるのか。」彼は蒼白くなつた顔を紅《あか》くして、急いで彼女を内へ入れた。
「上つても可いんですか。」彼女はちよつと気がひけたやうに入口で躊躇《ちうちよ》してゐた。
 家は上り口と、奥の八畳との二室《ふたま》であつたが、八畳から二階へ梯子《はしご》が懸《かけ》わたされて、倉を直したものらしく、木組や壁は厳重に出来てゐたが、何となく重苦しい感じを与へた。で、上つて行つて、蒲団などを侑《すゝ》められると、彼女は里離れのした態度で、更《あらた》めて両手をついて叮嚀《ていねい》にお辞儀をした。彼は面喰《めんくら》つたやうな困惑を感じた。裏の畑にでもできたらしい紅色《べにいろ》した新鮮な水蜜桃《すゐみつたう》が、盆の上に転つてゐた。
「しかし能く来てくれたね。まさか君が今頃来ようとは思はないもんだから、ふつと顔を見たときには、君の幽霊か、僕の目のせゐで幻《まぼろし》が映つたのかと思つて、慄然《ぞつ》としたよ。」
「さう。私はまた自分の気紛れで、飛んだところへ来たものだと思つて、何だか悲しくなつてしまつたの。夢でも見てゐるやうな気がしてならなかつたんですの。でも貴方《あなた》に会へて安心したわ。道がまた馬鹿に遠いんですもの、私厭になつちまつたわ。」
「夜だから然《そ》う云ふ気がしたのだよ。」
「貴方はこんな処にゐて、寂しかないの。」女はさう言つて四下《あたり》を見まはした。
「こゝが一番涼しいから。」彼はさう言ふうちも、どこかおど/\した調子で、時々|母屋《おもや》の方へ目をやつた。
「私こゝにゐても可いのでせうか。貴方の御母さんや御妹さんに御挨拶もしなければならないでせう。」女も不安さうに言つた。
「いや、いづれ明朝《あした》僕が紹介しよう。それに親父は浦賀の方の親類へ行つてゐるんだ。多分二三日は帰らないだらうと思ふ。当分ゐたつて可いんだらう。」
「さうね、御内所の方は幾日ゐたつて介意《かま》やしませんわ。私貴方のお手紙で、海へでも遊びにいかうと思つて、来たんですけれど……それには色々話したいこともあるにはあるんですの。でも私こゝにゐても可いの。」
「それあ可いんだけれど、何なら町の方で宿を取つてもいいと思ふね。」彼は女に安心を与へるやうに言つたが、何処においていゝかと惑《まど》つてゐる風であつた。
 話が途切れたところで、彼女は持つて来た土産物を出して、「急に思ひついて来たんですから、何にももつて来なかつたのよ」とさう言つて、彼の前においた。
 彼はたゞ大様《おほやう》に頷《うなづ》いたきりであつたが、やがて女の傍を離れて、母屋《おもや》の方へ行つた。
 彼の家《うち》は農家ではあつたが、千葉の方から養子に来た父は、元が商人出であつたから、ちよい/\色々《いろん》なことに手を出してゐた。東京へも用達《ようた》しに始終往復してゐて、さう云ふ時の足溜りに、これまで女を下町の方に囲つておいたこともあつた。
 大分たつてから、一人の女中がお茶や菓子を運んで来たが、間もなく彼も飛石づたひに此方《こつち》へやつて来た。
「母に話したら、是非
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