をか》の方へやつて来た。
 端艇が浜へついたとき、懸《かけ》わたされた船板から、四五人の男女が上陸して来たが、その中に旧式なパナマを冠つて、小さい手提鞄《てさげかばん》と細捲《ほそまき》とをもつて、肥満した老人が一人こつちへ遣つて来た。近づくに従つて、其の姿は段々はつきりして来て、白地の帷子《かたびら》や絣《かすり》や、羽織の茶色地までがきらきらする光線に見分けられた。帯の金鎖や眼鏡がちか/\光つてゐた。
 彼女はじつと其の姿を凝視《みつ》めてゐたが、それは何うやら能く自分のところに通つてくる、千葉在だと云ふお爺《やぢ》らしく思はれて来た。
 と、それと同時に彼の面《おもて》にも暗い困惑の色が浮んで来て、やがて其処を立つて、そろ/\葦簾張《よしずばり》の外へ出て行つた。間もなく彼女もそこを離れた。
 それが彼の父親だといふことは、後で彼が言つて聞かせたが、彼女は何にも語らなかつた。
 其の晩も二人は町や海岸を散歩して、帰つてからも遅くまで月光の漾《たゞよ》ひ流れてゐる野面《のづら》を眺めながら話してゐた。彼は彼女の憂欝《いううつ》な気分を悲しく思つたが、女は自分を如何にして幸福にしようかと悩んでゐる彼を哀んだ。
 三日目に、彼はちよつと家《うち》へ帰つてくると言つて立つて行つたが、その夕方彼女は宿へも無断でそこを立つてしまつた。
[#地から1字上げ](大正九年四月)



底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房 
   1965(昭和40)年5月10日発行
初出:「中央公論」
   1920(大正9)年4月
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2006年1月27日作成
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