ころを見ると、悪人のやうにも思へたが、兄の方が悪いやうにも思へた。しかし何処へ行つて見ても、結局父が懐かしく思ひ出せるだけだつた。何うしてこんなに、彼方行つたり此方へ遣られたりするのか、その理由も解らなかつたし、考へて見るだけの智慧もなかつた。それが度重なつたところで、そんな神経が若《も》しあつたとしても、いつか萎《な》えてしまつて、常習的に感じがなくなつてしまつたものだつた。白い眼を剥《む》き出す癖が、この頃特に目立つて来て、系統だから、折角一人前の女に仕揚げたところで、何んなことで頭脳が狂はないものでもなかつた。光沢に乏しい皮膚の色や、細つこい首筋を見ても、何か遺伝の毒がありさうに思へたり、突拍子《とつぴやうし》もなく笑ひ出す調子も怪しかつた。――圭子はさう思ふと、一時に厭気が差して来た。
 或日厄介ものを棄てに行くやうに、圭子は咲子をつれて、渡辺の家へおいて来た。渡辺は咲子の父のゐた、ブリキ屋のつい近くの路次に往んでゐた。
「私には迚《とて》もこの子は面倒見切れませんよ。」
 渡辺は薄暗い部屋の炬燵《こたつ》の側で、狸《たぬき》のやうに坐つてゐた。
「さうですか。いや、それでしたら又|何《な》んとか考へませうが……。」咲子をぢつと見て、
「お前は馬鹿だね。この姐《ねえ》さんとこにゐられないやうなら、何処《どこ》へ行つたつて駄目だぞ。――お父ちやんが好い家へ行つたと言つて、安心して田舎へ帰つたのにさ。」
「親父さんも手甲摺《てこず》つたものらしいのですね。」
「いや、私も余り深いことは知らないので、講中の附合で知つてゐるところから、是非心配してくれといはれましてね。」
 圭子の傍に坐つてゐた咲子は、遽《にはか》にえへゝと笑ひ出した。ちよつと見ると、それは大人を小馬鹿にしてゐるのだとしか思へないので――今までもそれを悪摺《わるず》れのせゐにしてゐたものだが、それの間違ひであつたことが、較々《ほゞ》感づけて来た訳《わけ》だつた。藤子の鑑定したやうに、早晩痴呆症の発作が咲子に起らないとも限らないのであつた。
 兎に角置いて来たのだつたが、三日ばかり経つと、渡辺が再びチビを連れてやつて来た。そして、何といつても此処が籍元だからといふ理由で、否応《いやおう》なしになすりつけて行つてしまつた。無論三軒ばかり見せて歩いた結果であつた。
 圭子は押返す勇気もなかつた。当分のつもりで預ることにした。
 蓮見はといふと、彼は咲子に対する興味を、全く無くしてゐた訳ではなかつたし、かうなれば持久戦に入るより外なかつた。教会へでもやつたらとも考へたが、一度すつかり医者に診察してもらはうかとも思案した。それに生理的の欠陥は兎に角、何か一つの魂――正義感のやうなものを持つてゐるのも面白いし、彼が少し熱意をもつて言つて聞かせる場合、彼女の表情には明らかにそれに触れるらしい或る閃《ひらめ》きが認められるので、扱ひ方によつては、長い間には何うかなりさうな気もするのであつた。
「仕方がないさ。かういふものが飛びこんで来るのも、一つの縁だから、当分ぢつと見てゐるさ。」
 或る晩蝶子が出て行つたあとで、雛子にも口がかゝつて来た。咲子は躁《はしや》ぎ立つて、彼女の下駄をそろへたり、伝票を出したりした。
「雛子さん矢張り出るね。今日はこれで二つだ。」
「生意気いふな。あんたが儲《まう》かる訳ぢやないだろ。」
 雛子はいつもの調子だつた。咲子は鏡に映る彼女の黒ダイヤのやうな大きい瞳《ひとみ》を覗きこんで、にこ/\してゐた。
「うむ、雛子姐さん矢張り美しい。」
「美しくなんかあるもんか。」
 雛子は褄《つま》をつまんで出て行つた。
 ちやうど圭子が風呂へ行つてゐたので、咲子が雛子の脱ぎ棄ての村山大島と安錦紗《やすきんしや》の襲《かさ》ねを取りあげて畳まうとしたが、ちよつと匂ひをかいで見て、
「うむ臭い!」
 と言つて、平べつたい鼻に皺《しわ》を寄せた。そして畳むかはりに、くる/\と丸めて押入の隅へ投《はふ》りこんでしまつた。
「臭いか。」
 蓮見がきくと、
「臭い!」
「お前のお父さんの部屋は、迚《とて》も臭かつたぜ。あんな汚ない蒲団のなかで、熟柿《じゆくし》くさいお父さんに抱かれて寝てゐても臭くなかつたのか。」
「臭くないんです。好い匂ひなんです。」
「あれは何の臭気《にほひ》だい。」
「私ね、おしつこすると、お父ちやんが翌朝外へ出して干すの。さうすると綿がふか/\して、迚もいゝ気持なんです。」
「寝小便するのか。」
「することもあるんですけれど、目がさめた時は、下へ行くの暗くて恐《こは》いから、七輪のなかへするんです。」
「それだとお灸《きう》もんだね。」
「をぢさんは?」
「子供の時から一度もしない。」
「ふむ!」咲子はぢつと彼を見てゐた。
 やがて咲子は玄関脇の二
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