訊くのよ。それあ私だつて心配があるわよ。大人には小さい人にわからない心配があるのよと言ふとね、姉さんなんか些《ちつ》とも心配することなんかないぢやないか。をぢさんが死んでも、この家もアパートもあるんだから、ちつとも困りやしないつて言ふのよ。その癖自分のことは何も言はないの。敵《かな》はないわ。」
 蓮見は笑へもしなかつた。
「へえ、チビの主観だ。」
「勝手で横着なだけに、可哀さうなところもあるの。だけど何だか少し厭な子ね。松やと一緒に寝かさうと思つても、何うしても厭だと言つて頑張《ぐわんば》るし、煙草でも買はせにやれば、入りこんで油を売つてゐるし、長くゐるうちには近所隣り何処へでも入りこんで、困ると思ふわ。」
「何しろ時々凄いこと言ふよ。」
 傍にゐた三男も、林檎《りんご》を食べながら笑つてゐた。
 九時頃だつたけれど、咲子はもう納戸《なんど》で寝てゐた。
 藤子の話によると、ちよつとした言葉の行掛りから、或時咲子は意地づくで水風呂のなかへ飛びこんでしまつた。風呂好きな彼女は風呂の催促でもしたものらしかつたが、いつも藤子達が入つてから入れられ、時間の都合では、をばさんが洗つてやるので、咲子の番は遅かつた。しかしいくら勝手な彼女でも、そこまで考へる筈はなかつた。たゞちよつと奇抜な芸当をやつて見せたに過ぎないのであつたが、可なりの時間を水風呂のなかに立つて、えへゝ笑つてゐるのであつた。
「何しろ少し変だわよ。」
 蓮見はこの子供の一番上の兄が、気が狂つて松沢にゐることを思ひ出した。二番の兄は運転手だつた。この二人の兄は、咲子と、今一人の仕込みに行つてゐる彼女の姉と、父を異にしてゐた。彼等の母は、咲子の三つの年死んだ。

 再び圭子のところへ帰つて来た。
 咲子は蓮見の家へやられた時、広いので悦《よろこ》んでゐた。
「うむ、これならをぢさんのとこ好い家だ。」
 彼女は幸福さうだつたが、違つた環境の寂《さび》しさが段々しみて来た。悪戯《いたづら》は出来ないし、柄《がら》にあふ女達も近所にはなかつた。行儀や言葉づかひを直されるのも、気窮《きづま》りで仕方がなかつた。圭子のところで、いつも謳《うた》つてゐた「奴《やつこ》さん」だとか、「おけさ踊るなら」も、人々の笑ひの種子《たね》だつた。口にしつけた焼鳥や蜜豆も喰べられないし、毎日の楽しみだつた八飴を嘗《な》めに行くなどは思ひも寄らないことだつた。次第に彼女は寂しくなつた。苛《いぢ》められたり揶揄《からか》はれたりしても、まだしも雛子や蝶子が懐かしかつた。お出先きへ貰ひに行くとか、着替へを運んで行つたり、あの商売の手伝ひでもして、わあ/\言つてゐる方が、何んなに面白いか知れなかつた。何《ど》うかすると出先きで、酔つぱらひのお客に揶揄《からか》はれたり、銀貨をもらつたりするのも、忘られない楽しみであつた。
「うむ、お前好い児だ。今に芸者に出たら買つてやるぞつて……帽子横つちように冠つて、へべれけに酔つてんのさ。」
 咲子はさう言つて、はゝ笑つてゐるのだが、習慣的にさういふ気分が好きだつた。いや、習慣的といふよりか、子供によつては先天的に、さういふ血を亨《う》けてゐるのであつた。売淫が直《ぴつた》りはまるやうな女も、世間にはないことでもないのだし、水商売にのみ適した女もない訳ではなかつた。さういつた傾向の女を、厳格な堅気風に仕立てることは、寧《むし》ろ徒労だと言つても可かつた。
「何うだつたい、をぢさんの家は?」
 蓮見がきくと、持前の愛嬌笑《あいけうわら》ひをして、
「広い家は夜になると寂《さび》しいんですよ。」
 咲子は言つたが、をばさんの良人のアパートの番人のをぢさんに蹴《け》られたことを、今も不平さうに訴へるのであつた。
「蹴つたんぢやない。お前が長火鉢の前に頑張つてゐたから、退《ど》けと言つて膝で押しただけだといふぢやないか。」
 蓮見は弁解した。
 しかし咲子は、蓮見の家で暮らしたことによつて、何かまた少し考へるやうになつてゐた。いくらか温順《おとな》しくなつたやうに見えたが、それも日がたつに従つて、前よりも一層附けあがつて来た。何よりも圭子を失望させたのは、父親に言はれて来たらしい、虐《いぢ》められたら警察へ飛込むのだといふことだつた。それに彼女は、何もかも知つてゐた。父が受取つた金の高、仲人がそのうち幾許《いくら》はねたかといふやうな事まで。それに、父は積つてゐた部屋代も払はずに、ブリキ屋や、同宿の人の隙を覘《ねら》つて夜逃をした事――それはブリキ屋が彼の田舎《ゐなか》の落着先を圭子のところに聞きに来た時の話で解つたことだが、それを知つた咲子は怒つてゐた。
「私のお父ちやん矢張り悪い人だつたんだ。」
 彼女は子心に父を色々に考へてゐるものらしかつた。兄と往来《ゆきき》をしないと
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