は追つかけるやうにして声かけたが、もう路次のうちには見えなかつた。
 五日七日のあひだ、それでも晴代は多分迎ひに来てくれるであらう木山を待つた。しかし木山は現はれなかつた。
「別れてやつてあの人も可かつたのだ。」晴代はさうも思つた。
 大分たつてから一度|薫《かをる》に勧められて、父や母に内密で、そつと旧《もと》の古巣へ行つて見た。そして勝手口から台所へあがつて見た。竹の皮や皿小鉢の散乱した食卓が投《はふ》り出されてあつた。床も埃《ほこり》でざら/\してゐた。茶の間へ入ると、壁にかゝつてゐる褞袍《どてら》がふと目についた。この冬晴代が縫つて着せたものであつた。
 出しなに路次口で、懇意にしてゐたお巡りさんの細君に出逢つてしまつた。
「奥さん本所の阿母《おつか》さんが御病気ださうで。余程お悪いんですか。」
 細君がきいた。
「えゝ、それ程でもないんですけれど……。」
 晴代は言葉を濁して、泣きたいやうな気持で路次を出た。木山の見え坊も可笑《をか》しかつたが、四年間の夢の棄て場が、是かと思ふと、矢張り来て見ない方が可かつたと思はれた。
[#地から1字上げ](昭和十二年三月)



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