なりさうになつたところで、辛《から》くも最後の一線に踏み止まらうとした晴代の気持にも既に世帯の苦労が沁みこんでゐた。
 狭い路次にある裏の入口に立つてみると、そこに細い二段の階段があり、階段の側にむせるやうな石炭や油の嗅気《にほひ》の漂《たゞよ》つたコック場のドアがあり、此方側の、だらしなく取散らかつた畳敷の女給溜りには、早出らしい女給の姿もみえて、その一人が立つて来て、じろ/\晴代の風体《ふうてい》を見ながら、二階の事務室へ案内してくれた。
 晴代は新らしい自身の職場を求めるのに、特にこの月魄を撰《えら》んだ訳《わけ》ではなかつた。震災で丸焼けになつて、それからずつと素人《しろうと》になつて母と二人で、前から関係のある兜町《かぶとちやう》の男から、時々支給を仰ぎながら細々暮らしてゐた古い商売友達の薫《かをる》が、浅草のカフヱに出てゐて、さういふ世界の空気もいくらか知つてゐたので、何《ど》うせ出るなら客筋のいい一流の店の方がチップの収入も好いだらうと思つて、今日思ひ切つて口を捜《さが》しに来たのだつた。しかし構へを見ただけで、ちよつと怯気《おぢけ》のつくやうな派手々々しい大カフヱも何う
前へ 次へ
全35ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング