う上へ上つてゐた。
「後で怨まれるから、私は下にゐなかつたことにして、上つてごらんなさい。」
 二階へ上つてみると、奥の四畳半にぴち/\音がして、窃《ひそ》やかな話声が籠つてゐた。襖《ふすま》をあけると、男が四人車座に坐つてゐた。丼《どんぶり》や鮨《すし》や蜜柑のやうなものが、そつち此方《こつち》に散らばつて、煙が濛々《もう/\》してゐた。晴代は割り込むやうにして、木山の傍に坐つたが、木山は苦笑してゐた。
 こゝで厭味など言つて喧嘩をするでもないと思つたので、晴代は晴代らしく棄身の戦法に出た。
「私も引きたいわ。」
 晴代が言ふので、幇間《ほうかん》あがりの主人が顔をあげた。
「あんたも遣るんですかい。」
「何うせ皆さんには敵《かな》ひませんけど、役くらゐは知つてますよ。」
 木山はちやうど休んでゐたが、
「止せよ、二人だと負けるから。」
「あんたの景気何う?」
「今夜は大曲りだ。ちつとも手がつかない。」
 さすがに木山は悄《しよ》げてゐた。
「緑ちやん今夜は外《はず》れだね。屹度《きつと》これから好いよ。それに女の人が一枚入ると、がらりと変つて来るよ。晴《はあ》ちやん助勢して、取りかへしなさいよ。」
 晴代は腹も立たなかつた。木山が摺《す》るなら此方も鼻ツ張りを強く、滅茶苦茶を引いてやらうと云ふ気になつた。
 木山と反対の側に、直きに晴代の座が出来た。二三百円も負けたかと思つたが、それどころではないらしい木山の悄《しよ》げ方《かた》であつた。
 晴代は手も見ないで引つ切りなしに戦つた。勿論出る度にやられた。木山も出ると負け出ると負けして、悉皆《すつかり》気を腐らせてゐた。
「もう止めだ。おい帰らう。」
 木山は晴代を促した。
「いいわよ、何うせ負けついでだから、うんと負けたら可いぢやないの。」
 木山は苦惨な顔を歪《ゆが》めてゐたが、晴代は反つて朗らかだつた。皆なが呆《あき》れて晴代を見てゐるうちに、無気味な沈黙がやつて来た。嵩《かさ》にかゝる晴代を止めるものもあつた。晴代も素直に札を投げ出した。
 計算する段になつて、脹《ふく》れてゐた木山の財布も、あらかたぺちやんこになつてしまつた。
 やがて二人そろつて外へ出たのは三時を聞いてからであつた。晴代はいくら集まつたかとか、いくら負けたかとか聞くのも無益だと思つたので、それには触れようともしなかつた。
 木山は帰ると直ぐ、口も利かずに蒲団を被《かぶ》つて寝てしまつた。

     四

 伝票の書き方、客の扱ひ方、各種の洋酒や料理の名など、一日二日は馴れた女給が教へてくれ、番も自分のに割り込ませるやうにしてくれた。
 遣つてみると、古い仕来《しきた》りがないだけに、何か頼りない感じだつたが、あの世界のやうに、抱へ主や、出先きのお神、女中といつた大姑小姑《おおしうとこじうと》がゐないのは、成程新しい職業の自由さに違ひないのだが、それだけに今まで一定の軌道のうへで仕事をしてゐたものに取つては気骨の折れるところもあつた。勿論あの世界の空気にも、今以つて昵《なじ》み切れないものがあり、商売の型にはまるには、余程自己を殺さなければならなかつた。何よりも体を汚《けが》さなければならないのが辛かつた。商売と思つて目を瞑《つぶ》つても瞑り切れないものがあつた。疳性《かんしやう》に洗つても洗つても、洗ひ切れない汚涜《をどく》がしみついてゐるやうな感じだつた。その思ひから解放されるだけでも助かると思つたが、チップの分配など見ると、それも何だか浅猿《あさま》しくて、貞操の取引きが、露骨な直接《ぢか》交渉で行はれるのも、感じがよくなかつた。
 誰よりも年が上であり、客を通して見た世界の視野も比較的広く、教養といふ程のことはなくても、辛《つら》い体験で男を見る目も一と通り出来てゐるうへに、気分に濁りがないので、直きに朋輩から立てられるやうになつた。髪の形、頬紅やアイシャドウの使ひ方なども教はつて、何《ど》うにか女給タイプにはなつて来たのだつたが、どこか此処の雰囲気《ふんゐき》に折り合ひかねるところもあつた。結婚の破滅から東京へ出て来て、慰藉料《ゐしやれう》の請求訴訟の入費で頭脳《あたま》を悩ましてゐる師範出のインテレ、都会に氾濫《はんらん》してゐるモダンな空気のなかに、何か憧《あこが》れの世界を捜さうとして、結婚を嫌つて東京へ出ては来たが、ひどい結核で、毎夜|棄鉢《すてばち》な酒ばかり呷《あふ》つてゐる十八の娘、ヱロの交渉となると、何時もオ・ケで進んで一手に引受けることにしてゐる北海道産れの女、等々。
 晴代はよく一緒の車で帰ることにしてゐる、北山静枝といふ美しい女に頼まれて、客にさそはれて銀座裏のおでん屋[#「おでん屋」に傍点]へ入つたり、鮨《すし》を奢《おご》られたりしたものだが、客の覘《ねら》つ
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