と直ぐ、口も利かずに蒲団を被《かぶ》つて寝てしまつた。
四
伝票の書き方、客の扱ひ方、各種の洋酒や料理の名など、一日二日は馴れた女給が教へてくれ、番も自分のに割り込ませるやうにしてくれた。
遣つてみると、古い仕来《しきた》りがないだけに、何か頼りない感じだつたが、あの世界のやうに、抱へ主や、出先きのお神、女中といつた大姑小姑《おおしうとこじうと》がゐないのは、成程新しい職業の自由さに違ひないのだが、それだけに今まで一定の軌道のうへで仕事をしてゐたものに取つては気骨の折れるところもあつた。勿論あの世界の空気にも、今以つて昵《なじ》み切れないものがあり、商売の型にはまるには、余程自己を殺さなければならなかつた。何よりも体を汚《けが》さなければならないのが辛かつた。商売と思つて目を瞑《つぶ》つても瞑り切れないものがあつた。疳性《かんしやう》に洗つても洗つても、洗ひ切れない汚涜《をどく》がしみついてゐるやうな感じだつた。その思ひから解放されるだけでも助かると思つたが、チップの分配など見ると、それも何だか浅猿《あさま》しくて、貞操の取引きが、露骨な直接《ぢか》交渉で行はれるのも、感じがよくなかつた。
誰よりも年が上であり、客を通して見た世界の視野も比較的広く、教養といふ程のことはなくても、辛《つら》い体験で男を見る目も一と通り出来てゐるうへに、気分に濁りがないので、直きに朋輩から立てられるやうになつた。髪の形、頬紅やアイシャドウの使ひ方なども教はつて、何《ど》うにか女給タイプにはなつて来たのだつたが、どこか此処の雰囲気《ふんゐき》に折り合ひかねるところもあつた。結婚の破滅から東京へ出て来て、慰藉料《ゐしやれう》の請求訴訟の入費で頭脳《あたま》を悩ましてゐる師範出のインテレ、都会に氾濫《はんらん》してゐるモダンな空気のなかに、何か憧《あこが》れの世界を捜さうとして、結婚を嫌つて東京へ出ては来たが、ひどい結核で、毎夜|棄鉢《すてばち》な酒ばかり呷《あふ》つてゐる十八の娘、ヱロの交渉となると、何時もオ・ケで進んで一手に引受けることにしてゐる北海道産れの女、等々。
晴代はよく一緒の車で帰ることにしてゐる、北山静枝といふ美しい女に頼まれて、客にさそはれて銀座裏のおでん屋[#「おでん屋」に傍点]へ入つたり、鮨《すし》を奢《おご》られたりしたものだが、客の覘《ねら》つ
前へ
次へ
全18ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング