なかった。
休茶屋で、ラムネに渇《かわ》いた咽喉《のど》や熱《いき》る体を癒《いや》しつつ、帰路についたのは、日がもう大分かげりかけてからであった。田圃に薄寒い風が吹いて、野末のここ彼処に、千住あたりの工場の煙が重く棚引《たなび》いていた。疲れたお島の心は、取留《とりとめ》のない物足りなさに掻乱《かきみだ》されていた。
旧《もと》のお茶屋へ還って往くと、酒に酔《え》った青柳は、取ちらかった座敷の真中に、座蒲団《ざぶとん》を枕にして寝ていたが、おとらも赤い顔をして、小楊枝《こようじ》を使っていた。
「まあ可《よ》かったね。お前お腹《なか》がすいて歩けなかったろう」おとらはお愛相《あいそ》を言った。
「お前、お水を頂いて来たかい」
「ええ、どっさり頂いて来ました」
お島はそうした嘘《うそ》を吐《つ》くことに何の悲しみも感じなかった。
おとらはお島に御飯を食べさせると、脱いで傍に畳んであった羽織を自分に着たり、青柳に着せたりして、やがて其処を引揚げたが、町へ帰り着く頃には、もうすっかり日がくれて蛙《かえる》の声が静《しずか》な野中に聞え、人家には灯《ひ》が点《とも》されていた。
「み
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