もそれを言出す勇気を欠いていた。そしてお島だけには、ちょいちょい当擦《あてこすり》や厭味《いやみ》を言ったりして漸《やっ》と鬱憤をもらしていたが、どうかすると、得意まわりをして帰る彼の顔に、酒気が残っていたりした。お島が帳場へ坐っている時々に、優しい女の声で、鶴さんへ電話がかかって来たりしたのも、その頃であった。そんな時は、お島は店の若いもののような仮声《こわいろ》をつかって、先《さき》の処と名を突留めようと骨を折ったが、その効《かい》がなかった。お島はその頃から、鶴さんが外へ出て何をして歩いているか、解らないと云う不安と猜疑《さいぎ》に悩されはじめた。植源の嫁のおゆう、それから自分の姉……そんな人達の身のうえにまで思い及ばないではいられなかった。日頃口に鶴さんを讃《ほ》めている女が、片端から恋の仇《かたき》か何ぞであるかのように思え出して来た。姉は、お島が片づいてからも、ちょいちょい訪ねて来ては、半日も遊んでいることがあった。
「それなら、何故私をもらってくれなかったんです」姉は、鶴さんに揶揄《からか》われながら自分の様子をほめられたときに、半分は真剣らしく、半分は笑談《じょうだん》らしく、妹のそこにあることを意《こころ》にかけぬらしく、ぽっと上気したような顔をして言ったことがあったくらいであった。
お島はそれが癪《しゃく》にさわったといって、後で鶴さんと大喧嘩《おおげんか》をしたほどであった。
三十四
鶴さんは、その当座外で酒など飲んで来た晩などには、時々お島が自分のところへ来るまでの、長い歳月の間のことを、根掘葉掘して聴くことに興味を感じた。結婚届まですましてあったお島と作太郎との関係についての鶴さんの疑いは、お島が説明して聴《きか》す作太郎の様子などで、その時はそれで釈《と》けるのであったが、その疑いは護謨毬《ゴムまり》のように、時が経つと、また旧《もと》に復《かえ》った。
「嘘《うそ》だと思うなら、まあ一度私の養家へ往ってごらんなさい。へえ、あんな奴がと思うくらいですよ。そうね、何といって可《い》いでしょう……」お島は身顫《みぶるい》が出るような様子をして、その男のことを話した。
「嫌う嫌わないは別問題さ。左《と》に右《かく》結婚したと云うのは事実だろう」
「だから、それが親達の勝手でそうしたんですよ。そんな届がしてあろうとは、私は夢にも知らなかったんです」
「しかもお前達夫婦の籍は、お前の養家じゃなくて、亭主の家の方にあるんだから可怪《おか》しいよ」
最初は心にもかけなかったその籍のことを、二度も三度も鶴さんの口から聴されてから、お島は養家の人達の、作太郎を自分に押つけようとしていた真意が、漸《やっ》と朧《おぼろ》げに見えすいて来たように思えた。
「そうして見ると、あの人達は、そっくり私に迹《あと》を譲る気はなかったもんでしょうかね」お島は長いあいだ自分一人で極込《きめこ》んでいた、養家やその周囲に於ける自分の信用が、今になって根柢《こんてい》からぐらついて来たような失望を感じた。
お島は、最近の養家の人達の、自分に対するその時々の素振や言《ことば》に、それと思い当ることばかり、憶出《おもいだ》せて来た。
「畜生、今度往ったら、一捫着《ひともんちゃく》してやらなくちゃ承知しない」お島はそれを考えると、不人情な養母達の機嫌を取り取りして来た、自分の愚しさが腹立しかったが、それよりも鶴さんの目にみえて狎々《なれなれ》しくなった様子に、厭気のさして来ていることが可悔《くやし》かった。
二年の余《よ》も床についていた前《せん》の上《かみ》さんの生きているうちから、ちょいちょい逢っていた下谷《したや》の方の女と、鶴さんが時々|媾曳《あいびき》していることが、店のものの口吻《くちぶり》から、お島にも漸く感づけて来た。お島はそれらの店の者に、時々思いきった小遣《こづかい》をくれたり、食物を奢《おご》ったりした。彼等はどうかすると、鼻《はな》ッ張《ぱり》の強い女主人から頭ごなしに呶鳴《どな》りつけられて、ちりちりするような事があったが、思いがけない気前を見せられることも、希《めず》らしくなかった。
鶴さんの出ていった後から、自身で得意先を一循|巡《まわ》って見て来たりするお島は、時には鶴さんと二人で、夜おそく土産《みやげ》などを提げて、好い機嫌で帰って来た。
三十五
荒い夏の風にやけて、鶴さんが北海道の旅から帰って来たのは、それから二月半も経ってからであった。暑い盛りの八月も過ぎて、東京の空には、朝晩にもう秋めかした風が吹きはじめていた。
鶴さんの話によると、帰りの遅くなったのは、東北の方にあるその生れ故郷へ立寄って、年取った父親に逢ったり、旅でそこねた健康を回復するために、近くの温泉場
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