どを着替えて、ぶらりと何処かへ出ていって了《しま》った。
 養母はその時、青柳にその時々に貸した金のことについて、養父から不足を言われたのが、気に障《さ》わったと云って、大声をたてて良人に喰《く》ってかかった。話の調子の低いのが天性《もちまえ》である養父は、嵩《かさ》にかかって言募って来るおとらの為めに遣込《やりこ》められて、終《しまい》には宥《なだ》めるように辞《ことば》を和げたが、矢張《やっぱり》いつまでもぐずぐず言っていた。
「ちっと昔しを考えて見るが可《い》いんだ。お前さんだって好いことばかりもしていないだろう。旧《もと》を洗ってみた日には、余《あんま》り大きな顔をして表を歩けた義理でもないじゃないか」
 養蚕室にあてた例の薄暗い八畳で、給桑《きゅうそう》に働いていたお島は、甲高《かんだか》なその声を洩聞くと、胸がどきりとするようであった。お島は直《じき》に六部のことを思出さずにいられなかった。ぶすぶす言っている哀れな養父《ちち》の声も途断れ途断れに聞えた。
 青柳に貸した金の額は、お島にはよくは判らなかったが、家の普請に幾分用立てた金を初めとして、ちょいちょい持っていった金は少い額ではないらしかった。この一二年青柳の生活が、いくらか華美になって来たのが、お島にも目についた。養父の知らないような少額の金や品物が、始終養母の手から私《そっ》と供給されていた。
 お島はその年の冬の頃、一度青柳と一緒に落会った養母のお伴をしたことがあったが、十七になるお島を連出すことはおとらにも漸《ようや》く憚《はばか》られて来た。場所も以前のお茶屋ではなかった。
 その日も養父は、使い道の分明《はっきり》しないような金のことについて、昼頃からおとらとの間に紛紜《いざこざ》を惹起《ひきおこ》していた。長いあいだ不問に附して来た、青柳への貸のことが、ふとその時彼の口から言出された。そして日頃|肚《はら》に保《も》っていた色々の場合のおとらの挙動《ふるまい》が、ねちねちした調子で詰《なじ》られるのであった。
 結局おとらは、綺麗に財産を半分わけにして、別れようと言出した。そして良人の傍を離れると、奥の間へ入って、暫《しばら》く用箪笥《ようだんす》の抽斗《ひきだし》の音などをさせていたが、それきり出ていった。
「まあ阿母《おっか》さん、そんなに御立腹なさらないで、後生ですから家にいて下さい。阿母さんが出ていっておしまいなすったら、私《わたし》なんざどうするんでしょう」
 お島はその傍へいって、目に涙をためて哀願したが、おとらは振顧《ふりむ》きもしなかった。
 夜になってから、お島は養父に吩咐《いいつ》かって、近所をそっち此方《こっち》尋ねてあるいた。青柳の家へもいって見たが、見つからなかった。
 おとらの未《ま》だ帰って来ない、或日の午後、蚕に忙《せわ》しいお島の目に、ふと庭向の新建《しんだち》の座敷で、おとらを生家《さと》へ出してやった留守に、何時か為《し》たように、夥《おびただ》しい紙幣《さつ》を干している養父の姿を見た。八畳ばかりの風通しのいいその部屋には、紙幣の幾束が日当りへ取出されてあった。

     十

 お島は養父が、二三軒の知合の家へ葉書を出したことを知っていたが、おとらが帰ってから、漸《やっ》と届いたおとらの生家《さと》の外は、その返辞はどこからも来なかった。
 養父はどうかすると、蚕室にいるお島の傍へ来て、もうひきるばかりになっている蚕を眺めなどしていた。蚕の或物はその蒼白《あおじろ》い透徹《すきとお》るような躯《からだ》を硬張《こわばら》せて、細い糸を吐きかけていた。
「お前|阿母《おっかあ》から口止されてることがあるだろうが」
 養父はこの時に限らず、おとらのいない処で、どうかするとお島に訊《たず》ねた。
「どうしてです。いいえ」お島は顔を赧《あから》めた。
 しかし養父はそれ以上深入しようとはしなかった。お島にはおとらに対する養父の弱点が見えすいているようであった。
 もう遊びあいて、家《うち》が気にかかりだしたと云う風で、おとらの帰って来たのは、その日の暮近くであった。養父はまだ帳場の方を離れずにいたが、おとらは亭主にも辞《ことば》もかけず、「はい只今」と、お島に声かけて、茶の間へ来て足を投げ出すと、せいせいするような目色《めつき》をして、庭先を眺めていた。濃い緑の草や木の色が、まだ油絵具のように生々《なまなま》してみえた。
 お島は脱ぎすてた晴衣や、汗ばんだ襦袢《じゅばん》などを、風通しのいい座敷の方で、衣紋竹《えもんだけ》にかけたり、茶をいれたりした。
「こんな時に顔を出しておきましょうと思って、方々歩きまわって来たよ」おとらは行水をつかいながら、背《せなか》を流しているお島に話しかけた。その行った先には、種違
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