いたし、房吉の姉のお鈴は、小さい方の子供に、乳房を啣《ふく》ませながら、茶《ちゃ》の室《ま》の方で、手枕をしながら、乱次《だらし》なく眠っていた。家のなかは、どこも彼処《かしこ》も長い日の暑熱に倦《う》み疲れたような懈《だる》さに浸っていた。
大輪の向日葵《ひまわり》の、萎《しお》れきって項《うな》だれた花畑尻《はなばじり》の垣根ぎわに、ひらひらする黒い蝶《ちょう》の影などが見えて、四下《あたり》は汚点《しみ》のあるような日光が、強く漲《みなぎ》っていた。
姉はおゆうと、五六分ばかり縁側で話をしていたが、やがて子供をそこへ卸《おろ》して、袂《たもと》で汗をふいていた。おゆうはまだ水気の取りきれぬ髪の端《はじ》に、紙片《かみきれ》を捲《まき》つけて、それを垂らしたまま、あたふた家を出ていった。
「きっと鶴さんが来ているんだ」
お島はそう思うと、急に張物が手に着かなくなって、胸がいらいらして来た。
「姉さんも随分な人だよ」
お島はいきなり姉の側へ寄っていった。
「どうしてさ」姉は這《は》っている子供に、乳房を出して見せながら、汗ばんだ顔を赧《あから》めた。
「解ってますよ」
「可笑《おかし》な人だね。解っていたら可《い》いじゃないの」
「そんな事をしても可いんですか」
「いいも悪いもないじゃないか。感違いをしちゃ困りますよ」
二三度口留をしてから、姉の話すところによると、金の工面に行詰った鶴さんが、隠居や房吉に内密《ないしょ》で、おゆうから少《すこし》ばかり融通をしてもらうために、私《そっ》と姉の家へやって来たのだと云うのであった。鶴さんが、そんなに困っているとは、お島には信ぜられないくらいであったが、姉の真顔で、それは事実であるらしく思えた。
「ふむ」お島は首を傾《かし》げて、「じゃもう、あの店も駄目だね」
「そうなんでしょう。事によったら、田舎へ行《い》くて言ってるわ」
「芸者を引張込むようじゃ、長続きはしないね。散々《さんざ》好きなことをして、店を仕舞うがいいや」
お島は自暴《やけ》に言いすてて、仕事の方へ帰って来たが、目が涙に曇っていた。せかせか出て行った今のおゆうの姿や、おゆうを待受けている鶴さんの、この頃の生活に荒《すさ》みきった神経質な顔などが、目について来た。
暫く経って、帰って来たおゆうの顔には、鶴さんのためなら、何でも為かねないような浮いた大胆さと不安が見えていた。
おゆうの部屋を出て行く姉の手には、小袖《こそで》を四五枚入れたほどの、ぼっとりした包みが提げられた。
四十四
堅い口留をして、ふとそれ等の事をお鈴に洩《もら》したお島は、それを又お鈴から聞いて、宛然《さながら》姦通《かんつう》の手証《てしょう》でも押えたように騒ぎたてる、隠居の病的な苛責《かしゃく》からおゆうを庇護《かば》うことに骨がおれた。
宵の口に、お島にすかし宥《なだ》められて、一度眠りについた隠居は、衆《みんな》がこれから寝床につこうとしている時分に、目がさめて来ると、広々した蚊帳《かや》のなかに起き坐って、さも退屈な夜の長さに倦《う》み果てたように、四下《あたり》を見回していた。
宵に母親に警《いまし》め責められた房吉は、隠居がじりじりして業《ごう》を煮《にや》せば煮すほど、その事には冷淡であった。遊人などを近《ちかづ》けていた母親の過去を見せられて来た房吉の目には、彼女の苦しみが、滑稽《こっけい》にも莫迦々々《ばかばか》しくも見えた。
「誰のためでもない、みんなお前が可愛いからだ」
※[#「※」は「兀+王」、第3水準1−47−62、83−17]弱《ひよわ》かった幼《ちいさ》い頃の房吉の養育に、気苦労の多かったことなどを言立てる隠居の言《ことば》を、好い加減に房吉は聞流していた。
「不義した女を出すことが出来ないような腑《ふ》ぬけと、一生暮そうとは思わない。私《わし》の方から出ていくからそう思うがいい」
思っていることの半分も言えない房吉は、それでも二言三言|辞《ことば》を返した。
「そんな事があったか否《ない》か知らないけれど、私《あっし》の家内なら、阿母《おっか》さんは黙ってみていたらいいでしょう。一体誰がそんな事を言出したんです」
隠居の肩を揉《も》んでいたお島は、それを聴きながら顔から火が出るように思ったが、矢張《やっぱり》房吉を歯痒《はがゆ》く思った。
無成算な、その日その日の無駄な働きに、一夏を過して来たお島は、習慣でそうして来た隠居の機嫌取や、親子の間の争闘の取做《とりなし》にも疲れていた。寝苦しい晩などには、お島は自分自身の肉体の苦しみが、まだ戸もしめずに、いつまでもぼそぼそ話声のもれている若夫婦の寝室《ねま》の方へも見廻ってみる、隠居と一つに神経を働かせた。
「まあ、そんな事は
前へ
次へ
全72ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング