結に、黒の三枚|襲《がさ》ねを着せてもらった頃には、王子の父親も古めかしい羽織袴をつけ、扇子などを帯にはさんで、もうやって来ていた。余り人中へ出たことのない母親は、初めから来ないことになっていた。
 川へ棄てようかとまで思余《おもいあま》したお島が、ここの家を相続することに成りさえすれば、婿が誰であろうと、そんな事には頓着《とんちゃく》のない父親は、お島の姿を見ても見ぬ振をして、茶の間で養父と、地所や家屋に関して世間話に耽《ふけ》っていた。日頃内輪同様にしている二三の人の顔もそこに見えた。不断養父等の居間にしている六畳の部屋に敷かれた座布団も、大概|塞《ふさ》がっていた。中には濁声《だみごえ》で高話《たかばなし》をしている男もあった。
 外が暗くなる時分に、白粉《おしろい》をこてこて塗って繰込んで来た若い女連《おんなれん》と無駄口を利《き》いたりして、お島は時の来るのを待っていた。女連は大方は一度か二度以上口を利合《ききあ》った人達であったが、それが孰《いずれ》も、式のあとの披露《ひろう》の席に、酌や給仕をするために※[#「※」は「にんべん」に「就」、第3水準1−14−40、43−6]《やと》われて来たのであった。その中には着物の着こなしなどの、きりりとした東京ものも居た。
 女達が膳椀《ぜんわん》などの取出された台所へ出て行く時分に、漸《やっ》と青柳の細君や髪結につれられて、お島は盃の席へ直された。
「まあ今日《こんにち》のベールだね」などと、青柳が心持わなないているお島の綿帽子を眺めながら気軽そうに言った。そんな物を着ることをお島が拒んだので、着せる着せないで談《はなし》がその日も縺《もつ》れていたが、到頭|被《かぶ》せられることになってしまった。
 盃がすむと、お島は逃げるようにして、自分の部屋へ帰って来た。それまでお島は綿帽子をぬぐことを許されなかった。
 着替をして、再び座敷の入口まで来たときには、人の顔がそこに一杯見えていたが、手をひかれて自分の席へ落着くまでは、今日の盃の相手が、作であったことには少しも気がつかなかった。折目の正しい羽織袴をつけて、彼はそこに窮屈そうに坐っていた。そして物に怯《おび》えたような目で、お島をじろりと見た。
 お島は頭脳《あたま》が一時に赫《かっ》として来た。女達の姿の動いている明《あかる》いそこいらに、旋風《つむじ》がおこ
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