さい。阿母さんが出ていっておしまいなすったら、私《わたし》なんざどうするんでしょう」
 お島はその傍へいって、目に涙をためて哀願したが、おとらは振顧《ふりむ》きもしなかった。
 夜になってから、お島は養父に吩咐《いいつ》かって、近所をそっち此方《こっち》尋ねてあるいた。青柳の家へもいって見たが、見つからなかった。
 おとらの未《ま》だ帰って来ない、或日の午後、蚕に忙《せわ》しいお島の目に、ふと庭向の新建《しんだち》の座敷で、おとらを生家《さと》へ出してやった留守に、何時か為《し》たように、夥《おびただ》しい紙幣《さつ》を干している養父の姿を見た。八畳ばかりの風通しのいいその部屋には、紙幣の幾束が日当りへ取出されてあった。

     十

 お島は養父が、二三軒の知合の家へ葉書を出したことを知っていたが、おとらが帰ってから、漸《やっ》と届いたおとらの生家《さと》の外は、その返辞はどこからも来なかった。
 養父はどうかすると、蚕室にいるお島の傍へ来て、もうひきるばかりになっている蚕を眺めなどしていた。蚕の或物はその蒼白《あおじろ》い透徹《すきとお》るような躯《からだ》を硬張《こわばら》せて、細い糸を吐きかけていた。
「お前|阿母《おっかあ》から口止されてることがあるだろうが」
 養父はこの時に限らず、おとらのいない処で、どうかするとお島に訊《たず》ねた。
「どうしてです。いいえ」お島は顔を赧《あから》めた。
 しかし養父はそれ以上深入しようとはしなかった。お島にはおとらに対する養父の弱点が見えすいているようであった。
 もう遊びあいて、家《うち》が気にかかりだしたと云う風で、おとらの帰って来たのは、その日の暮近くであった。養父はまだ帳場の方を離れずにいたが、おとらは亭主にも辞《ことば》もかけず、「はい只今」と、お島に声かけて、茶の間へ来て足を投げ出すと、せいせいするような目色《めつき》をして、庭先を眺めていた。濃い緑の草や木の色が、まだ油絵具のように生々《なまなま》してみえた。
 お島は脱ぎすてた晴衣や、汗ばんだ襦袢《じゅばん》などを、風通しのいい座敷の方で、衣紋竹《えもんだけ》にかけたり、茶をいれたりした。
「こんな時に顔を出しておきましょうと思って、方々歩きまわって来たよ」おとらは行水をつかいながら、背《せなか》を流しているお島に話しかけた。その行った先には、種違
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