よ》かったね」
 お島は可怕《こわ》そうに言ったが、やっぱりこの男を肺病患者扱いにする気には成得《なりえ》なかった。
「あんたが肺病になれば、私が看病しますよ。肺病なんか可怕《おっかな》くて、どうするもんですか」
「今じゃそうも行かない。これでも山じゃ死《しの》うとしたことさえあったっけがね」
「おお厭だ」お島は思出してもぞっとするような声を出した。「そんな古いことは言《いい》っこなし。あなたは余程《よっぽど》人が悪くなったよ」

     九十五

 一日の雑沓《ざっとう》と暑熱に疲れきったような池の畔《はた》では、建聯《たてつらな》った売店がどこも彼処《かしこ》も店を仕舞いかけているところであったが、それでもまだ人足《ひとあし》は絶えなかった。水に臨んだ飲食店では、人が蓄音器に集っていたり、係のものらしい男が、粗野な調子で女達を相手に酒を飲んでいたりした。暗闇の世界に、秘密の歓楽を捜しあるいているような、猥《みだ》らな女と男の姿や笑声が聞えたりした。
 お島はその間を、ふらふらと寂しい夢でも見ているような心持で歩いていた。会場のイルミネーションはすっかり消えてしまって、無気味な広告塔から、蒼《あお》い火が暗《やみ》に流れていたりした。
 浜屋の主人が肺病になったと云うことが、ふと彼女の心に暗い影を投げているのに気がついた。自分の世界が急に寂しくなったようにも感じた。しかし離れているときに考えていたほど、自分がまだあの男のことを考えているとは思えなかった。今のあの男とは全く懸はなれたその頃の山の思出が、微《かす》かに懐《なつか》しく思出せるだけであった。あの時分の若い痴呆《ちほう》な恋が、いつの間にか、水に溶《とか》されて行く紅の色か何ぞのように薄く入染《にじ》んでいるきりであった。
 自分の若い職人が一人、順吉というお島の可愛がって目をかけている小僧と一緒に、熱い仕事場の瓦斯《ガス》の傍を離れて、涼しい夜風を吸いに出ているのに、ふと観月橋の袂《たもと》のところで出会《でっくわ》した。
「どうしたえ、田舎のお爺さんは」お島は順吉に訊ねた。
 二人はにやにや笑っていた。
「今夜も酔っぱらっているんだろう」
「ええ何だかやっぱり外で飲んで来たようでしたよ」
 お島はこの順吉から、父親が自分の嫁振を蔭で非《くさ》して、不平を言っていることなどを、ちょいちょい耳にしていた
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