なかった。
 休茶屋で、ラムネに渇《かわ》いた咽喉《のど》や熱《いき》る体を癒《いや》しつつ、帰路についたのは、日がもう大分かげりかけてからであった。田圃に薄寒い風が吹いて、野末のここ彼処に、千住あたりの工場の煙が重く棚引《たなび》いていた。疲れたお島の心は、取留《とりとめ》のない物足りなさに掻乱《かきみだ》されていた。
 旧《もと》のお茶屋へ還って往くと、酒に酔《え》った青柳は、取ちらかった座敷の真中に、座蒲団《ざぶとん》を枕にして寝ていたが、おとらも赤い顔をして、小楊枝《こようじ》を使っていた。
「まあ可《よ》かったね。お前お腹《なか》がすいて歩けなかったろう」おとらはお愛相《あいそ》を言った。
「お前、お水を頂いて来たかい」
「ええ、どっさり頂いて来ました」
 お島はそうした嘘《うそ》を吐《つ》くことに何の悲しみも感じなかった。
 おとらはお島に御飯を食べさせると、脱いで傍に畳んであった羽織を自分に着たり、青柳に着せたりして、やがて其処を引揚げたが、町へ帰り着く頃には、もうすっかり日がくれて蛙《かえる》の声が静《しずか》な野中に聞え、人家には灯《ひ》が点《とも》されていた。
「みんな御苦労々々々」おとらは暗い入口から声かけながら入って行ったが、養父は裏で連《しきり》に何か取込んでいた。

     八

 お島は養父がいつまでも内に入って来ようともしず、入って来ても、飯がすむと直ぐ帳簿調に取かかったりして、無口でいるのを自分のことのように気味悪くも思った。お島はいつもするように、「肩をもみましょうか」と云って、養父の手のすいた時に、後へ廻って、養母に代って機嫌《きげん》を取るようにした。お島は九つ十の時分から、養父の肩を揉《も》ませられるのが習慣になっていた。
 おとらは一ト休みしてから、晴れ着の始末などをすると、そっち此方《こっち》戸締をしたり、一日取ちらかった其処《そこ》らを疳性《かんしょう》らしく取片着けたりしていたが、そのうちに夫婦の間にぼつぼつ話がはじまって、今日行ったお茶屋の噂《うわさ》なども出た。そのお茶屋を養父も昔から知っていた。
 此処から三四里もある或町の農家で同じ製紙業者の娘であったおとらは、その父親が若いおりに東京で懇意になった或女に産れた子供であったので、東京にも知合が多く、都会のことは能《よ》く知っているが、今の良人《おっと》が取引
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