マッピラと云う音が面白いと云うので、しきりに真平と云う事を申しました。
 外出の時はいつも背広でございましたが、洋服よりも日本服、別して浴衣が大好きでした。傘もステッキももった事はございません。散歩の途中雨にあっても平気で帰るのですが、余り烈しいとどこででも車を見つけて乗ってかえりました。靴は兵隊靴です。流行には全く無頓着でした。『日本の労働者の足は西洋人のよりも美しい』と申しました。西洋よりも日本、この世よりも夢の世が好きであったろうと思います。休む時には必ず『プレザント、ドリーム』とお互に申します。私の夢の話が大層面白いと云うので喜ばれました。
 ワイシャツやカラなどは昔から着けなかったようです。フロックコートを、仕方なく着ける時でもカラは極低い折襟でした。一種の好みは万事につけてあったのてすが、自分の服装は少しも構わない無雑作なのが好きでした。シャツと帽子とは、飛び放れて上等でした。シャツは横浜へ態々《わざわざ》参りまして、フラネルのを一ダースずつ誂えて作らせました。帽子はラシャの鍔広のばかりを買いましたが、上等物品を選びました。
 うわべの一寸美しいものは大嫌い。流行にも無頓着。当世風は大嫌い。表面の親切らしいのが大嫌いでした。悪い方の眼に『入墨』をするのも、歯を脱いてから入歯をする事も、皆虚言つき大嫌いと云って聞き入れませんでした。耶蘇の坊さんには不正直なにせ者が多いと云うので嫌いました。しかし聖書は三部も持っていまして、長男にこれはよく読まねばならぬ本だとよく申しました。

 日本のお伽噺のうちでは『浦島太郎』が一番好きでございました、ただ浦島と云う名を聞いただけでも『あゝ浦島』と申して喜んでいました。よく廊下の端近くへ出まして『春の日の霞める空に、すみの江の……』と節をつけて面白そうに毎度歌いました。よく諳誦していました。それを聞いて私も諳ずるようになりました程でございます。上野の絵の展覧会で、浦島の絵を見まして値も聞かないで約束してしまいました。
 『蓬莱』が好きで、絵が欲しいと申しまして、色々見たり、描いて貰ったりしたのですが皆満足しませんでした。
 熱い事が好きですから、夏が一番好きでした。方角では西が一番好きで書斎を西向きにせよと申した位です。夕焼けがすると大喜びでした。これを見つけますと、直に私や子供を大急ぎで呼ぶのでございます。いつも急いで参るのですが、それでもよく『一分後れました、夕焼け少し駄目となりました。なんぼ気の毒』などと申しました。子供等と一緒に『夕焼け小焼け、明日、天気になーれ』と歌ったり、または歌わせたり致しました。
 焼津などに参りますと海浜で、子供や乙吉などまで一緒になって『開いた開いた何の花開いた、蓮華の花開いた……』の遊戯を致しまして、子供のように無邪気に遊ぶ事もございました。
 『廣瀬中佐は死したるか』と申す歌も、子供等と一緒に声を揃えて大元気で、歌いました。室内で歌ったり、子供の歌って居るのを書斎で聞いて喜んだり、子供の知らぬ間にそっと出かけて一緒に歌ったり致しました。先年三越で福井丸の船材で造った物を売り出した時に巻煙草入を買って帰りました。その日に偶然ヘルンの書いて置きました『廣瀬中佐の歌』が出ましたから私は不思議に思いまして、それを丁度その箱に納めて置きました。
 発句を好みまして、これも沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと常談云いながら私に聞かせました。どなたが送って下さいましたか『ホトトギス』を毎号頂いて居りました。

 奈良漬の事をよく『由良』と申しました。これは二十四年の旅の時、由良で喰べた奈良漬が大層旨しかったので、それから奈良漬の事を由良と申していました。
 熊本を出まして、これから関西から隠岐などを旅行しようとする時です。九州鉄道のどの停車場でございましたか、汽車が行き違いに着きまして、四五分、互いに止まりました時に、向うの汽車の窓から私共を見た男の眼が非常に恐ろしい凄い眼でした。『あゝえらい眼だ』と思って居ると、私共の汽車は走ってしまったのですが『今の眼を見ましたか』とへルンは申しました。『汽車の男の眼』と云う事を後まで話しました。
 角力は松江で見ました。谷の音が大関で参りました。西洋のより面白いと申していたようでした。谷の音という言棄はよく後まで出まして、肥ったという代りに『谷の音』と申すのでございます。
 芝居はアメリカで新聞記者をして居る時分に毎日のように見物したと申していました。有名な役者は皆お友達で交際し、楽屋にも自由に出入したので、芝居の事を学問したと申していました。日本では芝居を見たのは僅か二度しかないのです。それは松江と京都で、ほんのちょっとでした。長い間人込みの中でじっとして見物して居る事は苦痛だと申しました。しかし、よい役者のよい芝居は子供等にも見せて宜しいと申しまして、よく芝居を見に行くように私に勧めました。團十郎の芝居には必ず参るように勧めました。その日の見物や舞台の模様から何から何まで、細い事まで詳しく話しますのが私のおみやげで、ヘルンは熱心にこれを喜んで聞いてくれました。團十郎には是非遇って芝居の事について話を聞いて見たいと申していましたが、果さないうちに團十郎は亡くなりました。
 晩年には日本の芝居の事を調べて見たいと申していました。三十三間堂の事を調べてくれと私に申した事もございました。これから少しずつ自伝を書くのだと申しました。その方は断片で少しだけでもできていますが芝居の方は少しもできぬうちに亡くなりました。
 私はよく朝顔の事を思い出します。段々秋も末になりまして、青い葉が少しずつ黄ばんで、最早ただ末の方に一輪心細げに咲いていたのです。ある朝それを見ました時に『おゝ、あなた』と云うのです。『美しい勇気と、如何に正直の心』だと云うので、ひどく賞めていました。枯れようとする最後まで、こう美しく咲いて居るのが感心だ。賞めてやれ、と申すのでございます。その日朝顔はもう花も咲かなくなったから邪魔だと云うので、宅の老人が無造作に抜き取ってしまいました。翌朝ヘルンが垣根のところに参って見るとないものですから、大層失望して気の毒がりました。『祖母さんよき人です。しかしあの朝顔に気の毒しましたね』と申しました。
 子供が小さい汚れた手で、新しい綺麗なふすまを汚した事があります。その時『私の子供あの綺麗をこわしました、心配』などと云った事もありました。美しい物を破る事を非常に気に致しました。一枚五厘の絵草紙を子供が破りましても、大切にして長く持てば貴い物になると教えました。
 祭礼などの時には、いつももっと寄附をせよと申しました。少し尾籠なお話ですが、松江で借家を致しました時、掃除屋から、その代りに薪(米でなく)を持って来てくれた話を聞いてへルンは大層驚いて『私恥じます、これから一回一円ずつおやりなさい』と申して聞き入れなかった事がございました。

 へルンはよく人を疑えと申しましたが、自分は正直過ぎる程だまされやすい善人でございました。自分でもその事を存じていたものですからそんなに申したのです[#「です」は底本では「てす」と誤植]。一国者であった事は前にも申しましたが、外国の書肆などと交渉致します時、何分遠方の事ですから色々行きちがいになる事もございますし、その上こんな事につけては万事が凝り性ですから、挿画の事やら表題の事やらで向うでは一々へルンに案内なしにきめてしまうような事もありますので、こんな時にへルンはよく怒りました。向うからの手紙を読んでから怒って烈しい返事を書きます、直ぐに郵便に出せと申します。そんな時の様子が直に分りますから『はい』と申して置いてその手紙を出さないで置きます。二三日致しますと怒りが静まってその手紙は余り烈しかったと悔むようです。『ママさん、あの手紙出しましたか』と聞きますから、態《わざ》と『はい』と申し居ります。本当に悔んで居るようですから、ヒョイと出してやりますと、大層喜んで『だから、ママさんに限る』などと申して、やや穏かな文句に書き改めて出したりしたようでございます。
 活溌な婦人よりも優しい淑《しとや》かな女が好きでした。眼なども西洋人のように上向きでなく、下向きに見て居るのを好みました。観音様とか、地蔵様とかあのような眼が好きでございました。私共が写真をとろうとする時も、少し下を向いて写せと申しましたが、自分のも、そのようになって居るのが多いのでございます。

 長男が生れる前に子供が愛らしいと云うので、子供を借りて宅に置いていた事もありました。
 長男が生れようとする時には大層な心配と喜びでございました。私に難儀させて気の毒だと云う事と、無事で生れて下されと云う事を幾度も申しました。こんな時には勉強して居るのが一番よいと申しまして、離れ座敷で書いていました。始めてうぶ声を聞いた時には、何とも云えない一種妙な心持がしたそうです。その心もちは一生になかったと云っていました。赤坊と初対面の時には全く無言で、ウンともスンとも云わないのです。後に、この時には息がなかったと申しました。よくこの時の事を思い出して申しました。
 それから非常に可愛がりました。その翌年独りで横浜に参りまして(独り旅は長崎に一週間程のつもりで出かけて、一晩でこりごり[#「ごり」は底本では「こり」と誤植]したと云って帰った時と、これだけでした)色々のおもちやを沢山買って大喜びで帰りました。五円十円と云う高価の物を思い切って沢山買って参りましたので一同驚きました。
 へルンは朝起きも早い方でした。年中、元日もかかさず、朝一時間だけは長男に教えました。大学に出て居ります頃は火曜日は八時に始まりますからこの日に限り午後に致しました。大学まで車で往復一時間ずつかかります。昼のうちは午後二時か三時頃から二時間程散歩をするか、あるいは読書や手紙を書く事や講義の準備などで費しまして、筆をとるのは大概夜でした。夜は大概十二時まで執筆していました。時として夜眠られない時起きて書いて居る事もございました。
 壽々子の生れました時には、自分は年を取ったからこの子の行先を見てやる事がむずかしい。『なんぼ私の胸痛い』と申しまして、喜ぶよりも気の毒だと云って悲しむ方が多ございました。
 私の外出の日はへルンの学校の授業時間の一番多い日(木曜日)にきめていました。前日にはよく外に出かけてよいおみやげを下さいと親切に注意致しました。『歌舞伎座に團十郎、大層面白いと新聞申します。あなた是非に参る、と、話のおみやげ』など申します。そしていつも『しかし、あなたの帰り十時十一時となります。あなたの留守、この家私の家ではありません。如何につまらんです。しかし仕方がない。面白い話で我慢しましょう』と申しました。
 晩年には健康が衰えたと申していましたが、淋しそうに大層私を力に致しまして、私が外出する事がありますと、丸で赤坊の母を慕うように帰るのを大層待って居るのです。私の跫音を聞きますと、ママさんですかと常談など云って大喜びでございました。少しおくれますと車が覆ったのであるまいか、途中で何か災難でもなかったかと心配したと申して居りました。

 抱車夫を入れます時に『あの男おかみさん可愛がりますか』と尋ねます。『そうです』と申しますと『それなら、よい』と申すのです。
 ある方をへルンは大層賞めていましたが、この方がいつも奥様にこわい顔を見せて居られる。これが一つ気にかかると申していました。
 亡くなる少し前に、ある名高い方から会見を申しこまれていましたが、この方と同姓の方で、英国で大層ある婦人に対して薄情なような行があったとか申す噂の方がありましたのでヘルンはその方かと存じまして断ろうと致して居りました。しかし、それは人違いであった事が分りまして、愈々《いよいよ》遇う事になっていましたが、それは果さずに亡くなりました。凡て女とか子供とか云う弱い者に対してひどい事をする事を何よりも怒りま
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