するのが例でした。いつも『オールライト、スウィートボーイス』と云って、嬉しそうに、少し踊るような風で参りますのでございます。しかし一所懸命の時は、子供だちが案内致しましても、返事がありません。また『オールライト』と早く返事を致しません。こんな時には、待てども待てどもなかなか食堂に参りませんから、私がまた案内に行きます。『パパさん沢山時、待つと皆の者加減悪くなります。願う、早く参りて下され。子供、皆待ち待ちです』『はー何ですか』などと云っています。『あなた何ですか、いけません。食事です。あなた食事しませんか』『私食事しませんでしたか。私は済みましたと思う。おかしいですね』こんな風ですから『あなた、少し夢から醒める、願うです。小さい子供泣きます』ヘルンは『御免御免』など云って、私に案内されて、食堂に参りますが、こんな時はいつも、トンチンカンでおかしいのです。子供にパンを分けてやる事など忘れて、自分で『ノウ』などと独り合点をしながら、急いで食べています。子供等がパンをと頼みますので、気がついて『やりませんでしたか。御免御免』と云って切り始めます。切りながら、又忘れて自分で食べたりなど致します。
 食事の前に、ほんの少々ウィスキーを用います。晩年には、体のためにと云うので、葡萄酒を用いていました。こんな時にはウィスキーを、葡萄酒と間違ってトクトクとコップについで呑みかけたり、コーヒーの中に塩を入れかけたり、などするのです。子供達から注意されて『本当です。なんぼパパ馬鹿ですね』など云いながらまた考に入るのです。幾度も『パパさんもう、夢から醒めて下され』などと申します。
 食物には好悪はございませんでした。日本食では漬物でも、刺身でも何でも頂きました。お菜から喰べました、最後に御飯を一杯だけ頂きました。洋食ではプラムプディンと大きなビフテキが好きでございました。外には好きなものと云えば先ず煙草でした。
 食事の時には色々話を致しました。パパは西洋の新聞などの話を致しますし、私は日本の新聞の話を致します。新聞は永い間『読売』と『朝日』を見てました。小さい『清』が障子からのぞきます。猫が参ります。犬が窓下に参ります。自分の食物をそれぞれに分けてやります。なかなか愉快に喰べました。それが済むといつも皆で唱歌などを歌いました。
 よく独りで、何か頻りに喜んだり悲しんだりしていました。喜んで少し踊るようにして廊下を散歩して居る事もありますし、又独りで笑って居る事もあります。私が聞きつけて『パパさん何面白い事ありますか』と尋ねますと、こらえていたのが、破れたように大きい声になって大笑など致します。涙をこぼしてママさんママさんと云って笑うのです。これは新聞にあったおかしかった事や、私の話した事などを思い出してであります。
 あのように考え込んだり、怪談好きである事から、常談など申さぬだろうと思われるようですけれども、折々上品な滑稽を申しました。『いつも先生に遇うと、何か一つ常談の出ない事はない』と申された方がございました。
 面白い時には、世界中が面白く、悲しい時には世界中が悲しい、と云う風でございました。怪談の時でも、何の時でも、そうでしたが、もうその世界に入り、その人物になってしまうのでございました。話を聞いて感ずると、顔色から眼の色まで変るのでした。自分でもよく、何々の世界と、よく世界と云う言葉を申しました。
 ヘルンの平常の話は、女のような優しい声でした。笑い方なども優しいのでしたが、しかし、ひどい意気込みになる人でしたから、優しい話のうちに、えらい勢で驚くように力をこめて云う事がありました。
 笑う時にも二つあります。一つは優しい笑方で、一つは何もかも打忘れて笑うのです。この笑は一家中皆笑わせる面白そうな笑で、女中までが貰い笑を致しました。大学を止めた当時、日本に駐在でしたマクドーナルドさんが横浜から毎日曜毎に御出でになりました時などは、書斎からへルンのこの笑声が致しますので、家内中どんなに貰い笑を致したか知れません。
 書斎のテーブルの上に、法螺貝が置いてありました。私が江の島に子供を連れて参りました時、大層大きいのを、おみやげに買って帰ったのでございます。ヘルンがこれを吹きますと、太い好い音が出ました。『私の肺が強いから、このような音』といって喜びました。『面白い音です』と云って、頬をふくらまして、面白がって吹きました。それから煙草の火のなくなった時に、この法螺貝を吹くと云う約束を致しました。火がないと、これとポオー、ウオーと云うように、大きく波をうたせるようにして、長く吹くのです。そう致しますと、台所までも聞えるのです。内を極静かにして、コットリとも音をさせぬようにして居るところです。そこへこの法螺貝の音です。夜などは殊に面白いのでございます。私は煙草の火は絶やさないように、注意をしていましたが、自分で吹きたいものですから、少しでも消えると直ぐ喜んで吹きました。如何に面白いと云うので、書斎の近くに持って参って居りましても、吹いて居るのでございます。この音が致しますと、女中までが『それ、貝がなります』と云って笑いました。

 よく出来た物などを見ますとひどくそれに感じまして、賞めるのでございます。上野の絵の展覧会にはよく二人で参りました。書家の名など少しも頓着しないです。絵が気に入りますと、金がいくら高くても、安い安いと申すのです。『あなた、あの絵どう思いますか』と申しますから[#「申しますから」は底本では「申ますしから」と誤植]『おねだん余り高いですね』と私は申します。金に頓着なく買おう買おうとするのを、少し恐れてこう返事を致すのでございます。すると『ノウ、私金の話でないです。あの絵の話です。あなた、よいと思いますか』『美しい、よい絵と思います』と申しますと『あなた、よいと思いますならば買いましょう。この価まだ安いです。もう少し出しましょう』と云うのです。よいとなると価よりも沢山、金をやりたがったのです。そして早く早くと云って、大急ぎで約定済の札をはって貰いました。
 京都を二人で見物して歩きました時に、智恩院とか、銀閣寺とか、金閣寺とかに廻りました。五銭十銭という拝観料が大概きまっています。ヘルンは自分で気に入りますと、五十銭とか一円とか出そうと云うのです。そんな事には及びません、かえっておかしいと申しましても『ノウ、ノウ、私恥じます』と申しまして、聞き入れません。お寺でも変な顔して、御名前はなどと聞くのですが、勿論申した事はございません。
 松江にいました頃、あるお寺へ散歩致しまして、ここで小さい石地蔵を見て、大層気に入りまして、これは誰の作かと寺で尋ねますと、荒川と申す人の作と云う事が分りました。この人は評判の偏人でございましたが、腕は大層確かであったそうです。学問のない、欲のない、いつも貧乏をしていながら、物を頼まれても二年も三年もかかっても、こしらえてくれない老人でございました。ヘルンは面白いと云うので、大きい酒樽を三度まで進物に致しました。それから宅に呼びまして御馳走をしたり、自分でその汚い家を訪ねて話など致しました。彫刻を頼んで、そんなに要らないと云うのを沢山にやりました。しかし、宅にございますあの天智天皇の置物は、荒川の作にしては出来のよい方ではないが、ヘルンの申しましたこの『貧しい天才』を尊敬して買ったのでございます。
 ある夏、二人で呉服屋へ二三反の浴衣を買いに行きました。番頭が色々ならべて見せます。それが大層気に入りまして、あれを買いましょうこれも買いましょうと云って、引寄せるのです。そんなに沢山要りませんと申しましても『しかし、あなた、ただ一円五十銭あるいは二円です。色々の浴衣あなた着て下され。ただ見るさえもよきです』と云って、とうとう三十反ばかり買って、店の小僧を驚かした事もあります。気に入るとこんな風ですから、随分変でございました。
 浴衣はただ反物で見て居るだけでも気持ちがよいと申しました。始めの好みは少し派手でしたが、後にはじみな物になりました。模様は、波や蜘蛛の巣などが殊に気に入りました、これを着ますと『あゝあの浴衣ですね』などと云って喜びました。日本人の洋服姿は好きませんでした。殊に女の方の洋服姿と、英語は心痛いと申しました。
 ある時、上野公園の商品陳列所に二人で参りました。ヘルンはある品物を指して、日本語で『これは何程ですか』と優しく尋ねますと、店番の女が英語でおねだんを申しました。ヘルンは不快な顔をして私の袖を引くのです、買わないであちらへ行きました。
 早稲田大学に参るようになりました時、高田さんから招かれまして参りました。奥様が、玄関に御出迎え下さいまして『よく御出で下さいました』と仰って案内されたのが英語でなくて上品な日本語であって嬉しかったと云うので、帰りますと第一に靴も脱がずにその話を致しました[#「致しました」は底本では「致した」]。
 『読売新聞』であったかと存じます、ある華族様の御隠居で、昔風が御好きで西洋風の大嫌いの方の話がありました。女中も帯は立て矢の字、髪は椎茸たぼの御殿風でございました。着物も裾長にぞろぞろ引きずって歩くのです。ランプも一切つけませんで源氏行灯です。シャボンも嫌い、新聞も西洋くさいというので、西洋くさい物は奉公人の末に到るまで使わせないのだそうです。こんな風ですから奉公人も厭がって参りません。『あの御屋敷なら真平御免です』と申します事が記してございました。この話を致しますと、ヘルンは『如何に面白い』と云って大喜びでした。『しかし私大層好きです、そのような人、私の一番の友達、私見る好きです。その家、私是非見る好きです。私西洋くさくないです』と云って大満足です。『あなた西洋くさくないでしょう。しかし、あなたの鼻』などと常談申しますと『あ、どうしょう、私のこの鼻、しかしよく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するです』などと申しました。
 子供に白足袋をはかせるように申しました。紺足袋よりも白足袋が大層好きでございました。日本人のあの白足袋が着物の下から、チラチラとするのが面白いと申しました。
 子供には靴よりも下駄をと申しました。自分の指を私に見せて、こんな足に子供のを致したくないと申しました。
 ハイカラな風は大嫌いでした。日本服でも洋服でも、折目の正しいのは嫌いでした。物を極構わない風でした。燕尾服は申すまでもなく、フロックコートなど大嫌いでした。ワイシャツや、シルクハット、燕尾服[#「燕尾服」は底本では「蕪尾服」と誤植]、フロックコートは『なんぼ野蛮の物』と申しました。
 神戸から東京へ参ります時に、始めてフロックコートを作りました。それも私が大層頼みましてやっとこしらえて貰ったのでございます。『大学の先生になったのですからフロックコートを一着持って居らねばなりません』と申しますと『ノウ、外山さんに私申しました。礼服を私大層嫌います。礼服で出るようなところへ私出ませんが、宣しいですかと云いました。それで宣しいですと外山さんが約束しましたのですから、フロックコートいけません』と云うのです。しかし漸く一着フロックコートを作りましたが、それを着けましたのは、僅かに四五度位でした。これを着る時は又大騒ぎです。いやだいやだと云うのです。『この物、私好きない物です、ただあなたのためです。いつでも外にの時、あなた云う、新しい洋服、フロックコート、皆私嫌いの物です。常談でないです。本当です』など云っていやがりますけれど、私は参らねば悪いであろうと心配しまして、気の毒だと存じながら四五度ばかり勧めて着せました。自分がフロックコートを着るのはあなたの過ちだと申していました。
 ある時、常談に『あなた日本の事を大変よく書きましたから、天子様、あなた賞めるため御呼びです、天子様に参る時、あのシルクハット、フロックコートですよ』と申しますと『それでは真平御免』と申しました。この真平御免と云う言葉は前の西洋嫌いの華族の隠居様の話で覚えたのです。
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