すが」と判事はふたたび語り出した。「林の陳述によると、死体は台所にうつぶしになっていて、背部に小刀《ナイフ》がつきさしてあったことになっていますし、実際現場捜査の結果は林の陳述と一致しているのですが、御子息は、死体を玄関にすてたままあわてて外へ飛び出したとおっしゃるのです……。それだけならよいが、近頃になってから、それもあまりはっきりおぼえてはおらぬ。ことによると、あの時夢中で自分が死体を台所までひきずって行ったのかもしれないと言われるのです。しかも、現場をしらべてみると、明かに玄関の三畳から六畳の居間をとおって台所へ死体をひきずっていった形跡があるのです。その上、まあどうでしょう。死体をひきずったあと[#「あと」に傍点]がていねいに雑巾か何かでふいてあったのです。ああいう際には、無意識でこういう用心深いことをやるのですねえ。よくある例です。しかし、それが事実だとすると、御子息の立場は、よほど不利になって来ますねえ。」
 判事はちょっと言葉をきった。彼は、自分の口から出る一語一語が、きき手の心臓へ鑿《のみ》を打ちこむ程の苦痛を与えていることなどにはまるで気がついていないらしい。あるいは気がついていてわざと相手を苦しませて楽しんでいるようにもとれる。
「そういうわけで、何しろ、肝腎《かんじん》のところで御子息の申し立てが曖昧になっておるので、どうにも困るのです。わたしは、何べんも申し上げたように過失であることを疑いませんが、申し立てに曖昧な部分があるようでは、世間が承知しません。検事は、ちょうど戸をあける時に、寝台が倒れて、その下にちょうど被害者がたっていて、しかも倒れた寝台の框《わく》が被害者の急所へぶっつかるというようなことは、とてもこしらえごととしか考えられんというのです。実際、偶然というものは人間の考えも及ばないような場合をつくり出すこともたま[#「たま」に傍点]にはありますが、ああいう誂《あつら》えむきな話を、裁判長に信じさせるということは、まず、余程困難だとみなければなりませんからねえ。」
 もし篠崎判事の目的が、原田教授を苦しめて苦しめぬくことにありとすれば、彼の目的は完全に達せられたといってもよい。なぜかなら老教授は、ただ身体の中心をとって倒れずにいるのがもうせいぜいのように見えるからである。けれども判事の目的は、相手を苦しめぬくよりも以上であるらしい。少くも、老教授にはそうとよりとれなかった。
 瀕死《ひんし》の病人は、死期が迫るにつれて、恢復の見込みを医師に頻繁《ひんぱん》にたずねるものである。そういう場合に老練な医師は患者を絶望させるようなことは決していわないものである。ところが、篠崎判事は、病人が息をひきとるまで、病人に恐怖を与えつづける無慈悲な医者と同じようであった。
「せがれは無罪にはならんでしょうか?」
 蚊のような細い教授の声に対して判事は答えた。
「無罪どころではありません。過失罪として情状を酌量されるかどうかも、今となっては疑問で、ことによると謀殺と認定されるかもしれないのです。」
「そんなことが、そんな無法な……では林という男の方はどうなるのです?」教授の声は、声というよりも、むしろ悲鳴である。
「あの方はもう問題でないのです。最初から嫌疑の理由が薄弱だったのが、御子息の自首によって、すっかり消滅したのですから。もうすでに予審免訴と決定して、今度の裁判には、被告としてではなく、証人として法廷へ出ることになっているです。」
「では、もうせがれ[#「せがれ」に傍点]を助けるてだて[#「てだて」に傍点]はないものでしょうか?」
「ないこともないかもしれません。が、何しろこの上ぐずぐずしていては大変なことになるかもしれません。御子息は、昨日今日は、審問するたびに、前の証言をとり消したり、ことによると自分が故意に殺したのかもしれないなどと、聞いているわたしさえもひやひやするようなことを口走られるのです。どうやら、あなたがおっしゃったように、ほんとうに精神に異状をきたされたらしいのです。そうしますと、一時精神病院で療養さして、改めて審問をしなおさねばならぬかとも考えておるのです。」
「そ、そんな、そんなひどいことが……精神病院なんて、あの恐ろしい狂人と一緒に、いいえ……せがれは狂人ではありません。」
 教授の身体の中にまだこれだけ興奮する力がのこっているのが不思議である。
 この時、玄関でベルの音がした。判事は女中の取り次ぐのも待たずに席を立って教授にちょっとことわって室を出てゆき、玄関で何やら低声《こごえ》で話していたが、すぐに引き返してきて語りつづけた。
「これはまた意外なことを承わるものですな。御子息の精神に異状があるということは、最初あなたがおっしゃったではありませんか?」
 あわれな老人は一言
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