すが」と判事はふたたび語り出した。「林の陳述によると、死体は台所にうつぶしになっていて、背部に小刀《ナイフ》がつきさしてあったことになっていますし、実際現場捜査の結果は林の陳述と一致しているのですが、御子息は、死体を玄関にすてたままあわてて外へ飛び出したとおっしゃるのです……。それだけならよいが、近頃になってから、それもあまりはっきりおぼえてはおらぬ。ことによると、あの時夢中で自分が死体を台所までひきずって行ったのかもしれないと言われるのです。しかも、現場をしらべてみると、明かに玄関の三畳から六畳の居間をとおって台所へ死体をひきずっていった形跡があるのです。その上、まあどうでしょう。死体をひきずったあと[#「あと」に傍点]がていねいに雑巾か何かでふいてあったのです。ああいう際には、無意識でこういう用心深いことをやるのですねえ。よくある例です。しかし、それが事実だとすると、御子息の立場は、よほど不利になって来ますねえ。」
判事はちょっと言葉をきった。彼は、自分の口から出る一語一語が、きき手の心臓へ鑿《のみ》を打ちこむ程の苦痛を与えていることなどにはまるで気がついていないらしい。あるいは気がついていてわざと相手を苦しませて楽しんでいるようにもとれる。
「そういうわけで、何しろ、肝腎《かんじん》のところで御子息の申し立てが曖昧になっておるので、どうにも困るのです。わたしは、何べんも申し上げたように過失であることを疑いませんが、申し立てに曖昧な部分があるようでは、世間が承知しません。検事は、ちょうど戸をあける時に、寝台が倒れて、その下にちょうど被害者がたっていて、しかも倒れた寝台の框《わく》が被害者の急所へぶっつかるというようなことは、とてもこしらえごととしか考えられんというのです。実際、偶然というものは人間の考えも及ばないような場合をつくり出すこともたま[#「たま」に傍点]にはありますが、ああいう誂《あつら》えむきな話を、裁判長に信じさせるということは、まず、余程困難だとみなければなりませんからねえ。」
もし篠崎判事の目的が、原田教授を苦しめて苦しめぬくことにありとすれば、彼の目的は完全に達せられたといってもよい。なぜかなら老教授は、ただ身体の中心をとって倒れずにいるのがもうせいぜいのように見えるからである。けれども判事の目的は、相手を苦しめぬくよりも以上であるらしい
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