實である。プロレタリヤの運動としての文藝運動はまずこういう人々の蟲のよい野心に對して答うるところがなければならぬ。プロレタリヤの文藝運動は流行作家の惡口をいう運動でもなければ、新進無名作家を引きたてたり擁護したりする運動でもない。無名と有名、流行と非流行とは問うところでない。それは階級戰である。ブルジョアに對するプロレタリヤの對抗運動である。
次にプロレタリヤの文藝運動は文藝運動であるよりも先ずプロレタリヤの運動であることを念頭におかねばならぬ。だからその綱領は文藝上の綱領ではなくて、プロレタリヤそのものの綱領でなければならぬ。プロレタリヤの解放――それがプロレタリヤ文藝運動の唯一の綱領である。それ以外のものを求めるのもまたプロレタリヤ文藝運動の陣營を去つて「階級」の「上」に赴くべきだ。文藝の爭いの奧に階級の爭いを認むるもののみ、影法師のうしろに實體を、枝葉の下に根幹を認むるもののみが階級藝術運動の戰士となり得るのである。
階級鬪爭の決勝戰はただ本隊の衝突によりてのみ決せられる。文藝運動はこのプロレタリヤ大衆の運動と協調聯絡を有しなければ全然無效である。大衆と離れた運動はただ徒勞であるか或は邪魔になるだけのものである。自ら階級文藝運動の戰士を以て任ずる人々にして往々これを理會しない爲めに大衆に對する運動を個人同志のこぜりあいと勘ちがいしているものがある。論敵や流行作家を緘口《かんこう》せしめることが何等かの絶對的意義を有しているかのように彼等は思いこんでいる。併しながら、局部の些々《さゝ》たる勝利から全線の勝敗が逆睹《ぎやくと》されないと同じく、そんなことはいうに足りない。文藝家が凡《すべ》てプロレタリヤの軍門に降るとしても、依然としてプロレタリヤの文藝運動は繼續される、一層の熱心をもつて、大衆がブルジョア觀念から解放されるまで。ブルジョア階級がたおれるまで。
要するにプロレタリヤの文藝運動はそれ自身に絶對意義を有するものではない。プロレタリヤの政治運動や勞働運動との提携によりてのみ意味があるのである。そんな相對的意義しかない運動では張り合いがないと思う人は、絶對運動に携るがよい。そして神でも射とめるがいい。太陽でも吹き落すがいい。
プロレタリヤの文藝運動は單なる觀念と觀念との戰いではない。その背後に利害と利害が睨みあい、權力と權力とが對峙《たいじ》している
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