如何なる方法を適用すべきかを明かにし、極く大づかみにこれが応用を試みたのである。しかし、私は、私の頭の中に考へてゐることを残らず発表し得なかつたし、発表した部分も多少明確を欠いてゐるかも知れぬと思ふ。何よりも私は、私の考へを裏づけるやうな材料を蒐集し、これを適当に整理する余裕をもたな過ぎた。そして、大部分を先人の、特にテエヌの説の祖述で充した。私は、文学の研究が、たゞ個人々々のまち/\の意見の発表に終始すべきものではなくて、それが科学となり得るものであることを、たとひおぼろげにでも、読者に信じて貰へれば十分である。
こまかしい部分、特に方法論の応用の部分には、誤解やまちがひが多分にあることゝ思ふ。併し、それは、この試みがまだ極めて幼稚な段階を進んでゐるに過ぎない事実に免じて、見のがしてもらへるだらうと期待してゐる。
私は科学の万能を信ずるものではない。科学的認識の限界を認めることに於ても人後に落ちるものではない。けれども、文学が科学的研究の対象になり得ないと考へる論拠を何一つ見出すことができないのである。文学作品を措いて文学はない。文学とは個々の文学作品を素材としてつくられた概念である。そして文学作品は、直接私たちの眼で読み、心で感ずることのできる具体的な存在である。これが科学的に研究できないといふなら、一切の科学の可能を否認しなければならぬ。人類は、かつて天界の現象を神化した。如何なる民族の神話にも天体や気界の現象が題材となつてゐないものはない。次に彼は単純な化学的現象を、魔法としておそれた。キリシタンバテレンの法などの中にもこの種のことが少なからず含まれてゐるだろうと思ふ。次に彼は生命現象こそ最後にのこされた神秘の不可侵の領域であると考へた。しかるに生理学や心理学は、生命の不思議を漸次征服してゆきつゝある。文学は観賞すべきものであつて、科学的に研究すべきものではないなどゝいふ主張は、砂糖は味ふべきものであつて、その化学的要素が何であるかなどを問題とすべきでないといふのと同様の愚説である。私は文学の研究が文学の鑑賞と両立しないものだなどゝは夢にも考へることができない。砂糖がどんな元素からなつてゐても、それが調味料としての価値を毫も失はぬのと同様である。[#地から1字上げ](大正十五年、社会問題講座)
底本:「平林初之輔文藝評論全集 上巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年5月1日発行
※底本では、文中の「経済的因素」「心理的因素」「宮廷生活」「『第二帝制治下に於ける一家族の自然史』」に「*」の注記記号のようなものが附してありますが、それに対応する注記が記載されていないので、この記号は削除しました。
入力:田中亨吾
校正:松永正敏
2004年5月31日作成
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