ゥにしてさめて、眼前には苦い現実の姿が横はつてゐた。自然主義文学が没理想的であり、暗黒であり、暴露的であるのは、さうした社会環境にもとづくものであらう。
 次に社会の生産力が増大して、これを所有し得る階級の勢力が俄然として抬頭して来たことは、凡ゆる精神文化を現金主義で彩つた。ロマンチスムの文学にまで色濃く残つてゐた貴族崇拝、古武士気質の礼讃、殉情主義、超俗主義等の思想は、自然主義の暴風によつて影をひそめた。ロマンチツクの人々が、敢へて文学作品の題材にし得なかつたであらうやうな、生々しい、醜悪な題材が、自然主義文学者には平気でとりあつかはれた。政治の平民化とゝもに、ジヤーナリズムが勃興して、それが文学作品にも影響を与へた、かういふ風になつて来ると、人生には、もうロマンスは見出されない。恋も、友情も、忠誠も、すべて平凡な現象として観察されるやうになつて来る。自然主義文学の一面の特色である平凡主義は、かういふ事情に胚胎してゐるのである。
 けれども、自然主義文学に、最も本質的な影響を与へたものは自然科学の勃興であつた。この自然科学の勃興が、当時の経済事情――産業の機械化――と密接な関係をもつてゐることは、ここでは不問に附する。たゞ自然主義文学が、如何に自然科学に刺戟されて起つたものであるかを一二の例によつて示すだけにとゞめておく。
 自然科学は、自然界に起る凡ての現象は、因果関係によつて決定されてゐることを信条とする。そして、前世紀に於て様々な科学者の努力によりて、自然現象の因果関係は次々に証明されていつた。この自然科学の偉大なる業績は、単に物質文明を一変させたのみならず、精神文化をも一変させるに十分であつた。
 自然現象が因果関係によりて決定されてゐるとすれば、人間の活動も亦因果関係によつて決定されてゐるのではなからうか? かゝる思想は誰の頭にも自然に浮んで来る思想である。そして自然主義文学者は、この疑問に対して「然り」と答へたのである。
 自然主義小説はフロオベルにはじまつたといはれてゐる。彼は、小説は、客観的であり、非個人的でなければならぬと主張し、人生の諸々の現象に対して小説家は非感傷的でなければならぬと信じた。それは、ちやうど科学者が自然物に対してとるべき態度と相通じてゐる。そしてランソンが言つてゐるやうに、この点では、自然主義は、古典主義への接近であり、古典主義文学の理性(raison)と自然主義文学の冷静(〔impassibilite'〕)との間には少なからぬ類似があるといはれよう。此の信条を作品にあらはしたものが、近代文学の傑作の一つとして光輝を放つてゐる『ボヴアリイ夫人』である。これは、正に、作者は作中の人物に同情したり、心を動かしたりしないで、鏡のやうにこれをあるがまゝに写さねばならぬといふ彼の理論を具体化した傑作である。
 けれども、ランソンが言ふやうにフロオベルはまだ芸術家であつた。ところが、ゾラに至つては科学者であり、自らも科学者をもつて任じてゐた。彼にとつては、小説は、他の精密科学と同様に法則科学となるべきものであつた。彼は人間の社会生活は、これを構成してゐる個人の心理現象に分析し得るとし、心理現象は生理学により、生理現象は物理化学によりて説明し得るものと考へた。そして、遺伝、環境等の作用を重要視する必要を力説した。『ルウゴン・マツカール叢書』即ち『第二帝制治下に於ける一家族の自然史』は、彼の抱負を実現しようとした近代文学の記念塔であると言へるであらう。
 自然主義文学の主張を、最も組織的に、体系的に大成した人はテエヌである。ゾラが自然主義小説を『実験小説』と呼んだやうに、テエヌは自然主義の芸術論を『実験美学』と呼んだ。彼は古い美学と実験美学との相異を次のやうに言ひあらはしてゐる。
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『古い美学は、先づ第一に美の定義を与へ、美とは道徳的理想の表現であるとか、美とは不可見のものゝ表現であるとか、美とは人間のパツシヨンの表現であるとか述べ、そしてこれを、法律の条文のやうに祭りあげて、それから出発して、或る作品を容《ゆる》したり、罰したり、戒めたり、指導したりしたのである。……私がこれから試みんとする近代的方法は、人間の作物、特に芸術作品を、事実若しくは製作物と見なして、その特色を指摘し、如何にしてかゝる特色が生じたかを研究するに過ぎない。それはゆるしたり、禁じたりはしない。たゞ認証し、説明するだけである。』
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 これでわかるやうに、自然主義文学の理論、方法は、自然科学のそれと正確に同じであるといはねばならぬ。

        結語

 以上に略述したところによつて、私の試みはほゞ読者にわかつたらうと思ふ。
 私は文学は科学的に、方法的に研究し得ることを前提として、
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