品なるものは、色々な研究の対象となり得る。即ち、色々な視点から研究することができる。けれども、これに最も包括的な説明を与へ得るためにこれを社会学的視点から研究するより外に道はない。即ち、個々の文学作品が生み出された心理的過程だとか、作品にあらはれた技術上の諸問題だとか、さういふ事柄は一時抽象し去つて、専ら、文学作品を社会的事実として取り扱ふよりほかに道はないのである。尤もこれ等の心理的過程や技術的問題も亦その説明を社会学的方法のうちに見出されるのであるが。

         上編  方法論

         一

 一つの文学作品――それが詩であつても小説であつても戯曲であつてもよい――が製作されるにあたつては、それが全くの気紛れ、全くの任意の所産でない限り、何等かの条件に制約される。若し、文学作品が何物の制約をも受けないならば、文学作品は理論的研究の対象にはなり得ない。吾々はたゞこれを気紛れに鑑賞することしかできないわけである。今日も、ごく稀れにはかやうな考へを抱いてゐる人もあるが、多くの方面に於て、見事な成果をあげた近代科学の方法は、かやうな懐疑論を生ずる余地を殆んど奪つてしまつたと言つてよい。学としての文学の可能なることは、従つて、こゝで疑問とする必要はないのである。
 文学作品に課せられる第一の条件は作者である。作者の天分、気質、性格、境遇、趣味、思想、年齢、一言にして言へば作者の個人性は、文学作品を決定する第一の条件である。これは何人も否む能はざる事実である。シエーキスピアの作品には、どれを見ても、シエーキスピアの個人性が深くきざまれてゐて、注意深い観察者には、それがはつきりと感知できるであらう。スタイルの上に、手法の上に、表現の上に、思想の上に、用語の上に、まぎれもない個人性の刻印を看取することができるであらう。この個人性、独創性を没却して文学作品を論ずることは不可能である。ところが、信ずべからざることであるが、文学作品に於ける個人性を認めないやうな文学論が、最近には稀にある。文学活動を、すつかり、社会的環境によつて直接に決定されるものであるとする、ラヂカルな決定論の如きがそれである。しかし、かくの如き決定論が最近にあらはれたことは、別に不思議ではない。それは、従来の文学論に於て、此の個人性が、分析することのできない不可侵なものとして文学作品を決定
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