オか経済関係或はその他の単一な条件の影響を受けてゐないのである。そこには無数の因素が存するのである。
 私が以上に述べた文学研究の方法論は、大部分テエヌの祖述である。たゞ私は、テエヌの芸術論のもつてゐる自然科学的面貌にかふるに、社会科学的相貌をもつてした。これは、主として、史的唯物論の方法に負ふのである。そしてこの方法は今日までのところではプレハノフに最も多く負ふのであるが、今はプレハノフの方法論には深く触れないことにしておく。

         下編 其の適用

         一

 近代の文学を最も大づかみにわけるならば、古典主義、浪漫主義、自然主義の三つに分けることができるであらう。私はこの短かい論稿に於ては、この三つの文学が、如何なる社会的条件に制約されて発生し、発達し、衰頽していつたかを辿ることで満足しなければならぬ。自然主義以後にも、重要な文学の諸流派が起つたことは事実であるが、それらは、あまりに雑多性と複雑性とに富んでをり、且つ、それらの起つた時代が、あまりに現代に接近し過ぎてゐるために、科学的研究の素材とするには不適当でもあるし、私の現在の企画は、たゞ、私の研究方法の例証を示すことにあるのであつて近代文学の諸相を残る隈なく研究することではないからでもある。

         二

 古典文学は、如何なる社会的環境のもとに発生し、成育していつたか? 私は、テエヌが、『芸術哲学』の中で、フランスの古典悲劇について語つてゐるところを殆んどそのまゝこゝで引用することによつて、この問に最もよく答へ得ると思ふ。
 彼は、中世紀の文明と建築との関係を述べたあとで、フランスの古典悲劇に眼を転じて大要次の如く語つてゐる。
 中世時代に人民を支配搾取してゐた封建諸侯の中に、漸次頭角を現はして他の同輩を征服するものが生じ、それが遂に国王といふ名のもとに、国民の首長となつた。十五世紀頃には、かつては同輩であつた諸侯は、国王麾下の将軍に過ぎなくなり、十七世紀頃には、その宮臣に過ぎなくなつてしまつた。しかしこの宮臣といふのは、たゞの家来ではなく、国王との関係は非常に親密であつて、国王も彼等を尊敬し、彼等は王城内に於いて国王とゝもに舞踏し、食事をともにするといふ風であつた。かくして、はじめには、イタリア及びスペインに、ついでフランスに、更にイギリスにドイツに北欧諸国に宮廷
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