達するか。氏は、芸術をして芸術たらしむるものは「芸術的なるもの」であるといふトートロジーの中から一歩も出られない。まさにそれは、日本人をして日本人たらしむるものは、日本人的なるものであるといふのと変りはない。論理はそこに少しも進展してゐない。土田杏村氏が文芸の味は何とも語ることのできぬ味であると言はれるのと同巧異曲である。
 けれども、村松氏は、「芸術的なるもの」は、時代により、流派により、階級により異ることを認められる。然らば氏は、アプリオリテートの説を翻して、芸術の本質の経験性に降服されたであらうか? 否、氏によれば、芸術のアプリオリテートは唯一なものではなくて、オリムピアの神と同様に複数なのである。多元なのである。それ/″\の階級、それ/″\の流派の芸術は、めいめいその守護神としてアプリオリテートをもつのである。即ちアプリオリテートが様々に変化するのである。こゝに於て、変化するものに経験性を認めないことは、氏の哲学的教養が許さない。そこで氏の頭脳の中には、実に精緻を極めた論理のモザイクが組みたてられる。曰くこのアプリオリテートは「経験的アプリオリテートともいふべきものである。それ
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