題に屡々ふれたが)一見それ等の問題よりも後に来る問題のやうに思はれるところの一つの問題を先づ考察しよう。それは「文芸戦線」第四巻第三号の社説の劈頭にかゝげられた「芸術の社会的役割」の一と二とについてである。それには次の如く言つてある。
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一、芸術とは意識を形式の中に体系づけることである。(註)
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(註) 「芸術とは、その中に時代及び階級のイデオロギイ的内容を表明し保持してゐる形式の謂である。」(ルウ・メルテン)
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二、それ故に芸術はこの形式の中に体系づけられた意識を社会に伝播し、社会の成員の意識を組織化する。
[#ここで字下げ終わり]
私は念のために次に、プレハーノフの「芸術と社会生活」に引用されたチエルヌイシエーフスキーの言葉を引用する。曰く「芸術、的確にいへば詩歌(唯詩歌のみ、何となれば他の芸術はこの意味に於て多くを為さないから)は読者大衆の中に非常に多くの知識を広め、更に重要なことには、科学によつて為されたる理解を普及せしめる、――これが詩歌の生活に対する偉大なる意義である」(蔵原惟人氏訳本二頁)
私がこれ等の引用をこゝにかゝげたわけは、先づ読者に、注意ぶかくこれを読んで貰ひたいからである。注意ぶかき読者は、この一連の引用の中から、次の事実を発見されるであらう。即はち、「文芸戦線」の社説は、芸術(特殊的には文学)の社会的役割について、ルウ・メルテン及びチエルヌイシエーフスキーよりも別箇の解釈を下してゐるといふ事実である。この解釈が、最近に於ける、プロレタリア文学の所謂マルクス主義的目的意識文学への転換の契機となつてゐるものであらう。そしてこの解釈に対する私の疑問が、或る人々をして、私の理論を実証主義的であると評せしめるに至つたものゝやうに思はれるから、この点に関する私自身の解釈、若しくは疑問をこゝではつきり述べておく義務があると私は感ずるのである。
先づ一について言へばルウ・メルテンは「芸術とは、その中に時間及び階級のイデオロギイ的内容を表明し保持してゐる形式[#「表明し保持してゐる形式」に傍点]の謂である」と言つてゐるに対し、「文芸戦線」の社説に於ては、「芸術とは意識を形式の中に体系づける[#「体系づける」に傍点]ことである。」と言つてゐる。問題の所在は、勿論体系づける[#「体系づける」
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