達するか。氏は、芸術をして芸術たらしむるものは「芸術的なるもの」であるといふトートロジーの中から一歩も出られない。まさにそれは、日本人をして日本人たらしむるものは、日本人的なるものであるといふのと変りはない。論理はそこに少しも進展してゐない。土田杏村氏が文芸の味は何とも語ることのできぬ味であると言はれるのと同巧異曲である。
 けれども、村松氏は、「芸術的なるもの」は、時代により、流派により、階級により異ることを認められる。然らば氏は、アプリオリテートの説を翻して、芸術の本質の経験性に降服されたであらうか? 否、氏によれば、芸術のアプリオリテートは唯一なものではなくて、オリムピアの神と同様に複数なのである。多元なのである。それ/″\の階級、それ/″\の流派の芸術は、めいめいその守護神としてアプリオリテートをもつのである。即ちアプリオリテートが様々に変化するのである。こゝに於て、変化するものに経験性を認めないことは、氏の哲学的教養が許さない。そこで氏の頭脳の中には、実に精緻を極めた論理のモザイクが組みたてられる。曰くこのアプリオリテートは「経験的アプリオリテートともいふべきものである。それは事実が先であつて然る後その事実から抽出されたアプリオリテートである」。
 経験に先行されるアプリオリテート、事実の後からついて来る、事実の中から抽出されるアプリオリテート、それはまさに私たちの理解を超越したアプリオリテートである。私たちは、こゝに、村松氏の頭に巣くふ執拗なる形而上学的方法の亡霊と、形而上学的理論の完全なる無能さの自己暴露とを見る。

         五 文学の社会的機能
               文芸戦線の社説の一句についての考察

 文学作品が社会的所産であり、従つて社会と交渉をもつことはこゝでわざ/\論証する必要のない程常識化されてゐることであるから、そのことは省略する。次に、従来、そして現在に於ても猶ほ、何回となく繰り返されてゐる芸術のための芸術、文学のための文学の問題、即はち、芸術文学は社会のために存在すべきものでそれ自身に自律性をもたぬものか、或は完全な自律性をもつものか、またその自律性には限界があるか、あるとすればその限界は何処に画さるべきか――これ等の一群の問題は、省略するわけにゆかない性質のものであるが、それは後廻しにして、(尤も部分的にはこの問
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