今日の社会主義文学、それから、多くの宗教文学などにこの特色は目立つてゐる。
以上の諸目的(その他にもあげ得るであらう)のうちで、いづれが、真正の、本来の文学の目的であるかといふ疑問は、私によれば成り立たない。今日に於ては、恐らくすべての文学が、以上の目的をそれ/″\分有してゐるでもあらう。従つて、傾向的な文学は、文学の本質に矛盾するとか、啓蒙文学は第二義の文学だとか、社会主義文学は文学の邪道であるとかいふ非難は成立しない。それと同時に、社会主義文学でなければ真の文学でないといふやうな非難も成立しない。
この私の説は、前に私が述べた文学理論に二つ以上の流派を認めないといふ主張と矛盾し、私をして、私が避けようと力めてゐる折衷論の中へ知らず知らずのうちに陥らしめるものゝやうに見える。併しながらそれは、単に外観的だけである。二つ以上の流派を許さないのは、一の体系に他の異質的体系の混在を許さないことである。雷を説明するにあたつて、電気の体系と神話の体系との混合折衷を許さないことである。かやうな異質的な二つの体系は互に補足しあふことも、両立することもできはしない。両者はたゞ排撃しあふのみである
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