述べたやうな見地にたつたとき、はじめて、形而上学的文学理論は屏息するであらう。そして、文学理論は真実の科学的基礎に立つことができるであらう。

         二 文学理論に於ける諸流派

 私は、前節に於て、自然主義の文学理論に、真の科学的基礎にたつ文学論の萌芽が見られるといふ意味のことを述べた。これに対して、私は、次のやうな抗議を多くの人から受けるだらうことを期待してゐる。
『君は自然主義の理論に共鳴してゐるからさういふのであるが、自分は、君が自然主義に共鳴してゐるのと同じ権利によつてロマンチシズム――或はフユチユリズム其の他如何なる流派でもよい――の理論に共鳴してゐる。だから自分はロマンチシズムの理論こそ真の文学理論だと思ふ。如何なる理論を真実とするかは、結局、如何なる理論を信ずるかによつて決するのだ。どんな理論もそれ/″\同様の存在権を有する。その何れを信ずるかは個人々々の趣味性格によつて決するのだ』
 以上のやうな主張に共鳴する人々は、文学の世界には極めて多数にのぼるであらうと私は信ずる。この主張は文学の理論は結局独断論であると信じてゐる人々には、非常に尤もらしく映ずるであらう。しかし、この主張こそ、まさに私たちが排撃しなければならぬものである。それは明々白々な理論の否認である。混沌の讃美である。
 それは、二つ以上の真理が両立するといふ論理的矛盾を呈示する。かういへば、反対者は、有名なポアンカレのパラドツクスを思ひ浮べるかも知れない。彼は、地球が太陽の周囲をまはつてゐるとするのも太陽が地球の周囲をまはつてゐるとするのも、いづれが真理であるとは言へない。いずれの説明が便利であるかと言ひ得るのみであると主張してゐるのである。これは一見驚くべき説のやうに思はれる。しかしながらこれは結局同じ真理を如何に言ひあらはすかといふ表現の問題に帰することを私たちは容易に発見する。私が東京から大阪へ行つたといふのも、大阪が私の脚下まで動いて来たといふのも、地球外の観測者にとつては物理的には同じことである。ただ私を規準にするよりも、地球を規準にする方が便利なだけである。ポアンカレが太陽と地球との運動について言つてゐることもそれと同様である。私たちは、地球、或はその他如何なる惑星――木星でも海王星でも――を規準としてゞも太陽系の運動を算定することはできる。そしてかくして得られ
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