でも若い人々が、他人に発表しようといふ希望も意思もなしに、たゞ自己の心中から湧きでるまゝの思想感情を紙に書きつけて楽しんでゐる場合、表現そのものが文学の目的となつてゐると言ひ得る。
けれども、社会が一定度の複雑な組織になつて来ると、読者を楽しませるといふ目的が、これに明白に加はつて来る。単に自分が楽しむだけではなくて、読むものを楽しませるといふ役割を文学がもつて来るに至るのは、けだし、最も自然な発展の径路でもあらう。近世の君主国に見る宮廷文学、封建時代の御用文学、それから、今日の商業文学(文学作品が完全に商品化した時代の文学をさす)等には、この目的が特に鮮明である。この場合には、貴族、君主、又は今日の場合では一般購買者を喜ばすことができなければ文学は存続することは許されないからである。
第三の啓蒙文学、更にその発展した宣伝文学、革命文学に於て、私たちは、もう一度目的の進化をそこに見る。単に読者をたのしませるだけでなくて、読者の心に何物かを与へ、それによつて読者を啓蒙し、人類社会の改善に貢献するところあらしめようと意欲するに至るのも、これ亦、至極当然の径路である。十八世紀の啓蒙文学、今日の社会主義文学、それから、多くの宗教文学などにこの特色は目立つてゐる。
以上の諸目的(その他にもあげ得るであらう)のうちで、いづれが、真正の、本来の文学の目的であるかといふ疑問は、私によれば成り立たない。今日に於ては、恐らくすべての文学が、以上の目的をそれ/″\分有してゐるでもあらう。従つて、傾向的な文学は、文学の本質に矛盾するとか、啓蒙文学は第二義の文学だとか、社会主義文学は文学の邪道であるとかいふ非難は成立しない。それと同時に、社会主義文学でなければ真の文学でないといふやうな非難も成立しない。
この私の説は、前に私が述べた文学理論に二つ以上の流派を認めないといふ主張と矛盾し、私をして、私が避けようと力めてゐる折衷論の中へ知らず知らずのうちに陥らしめるものゝやうに見える。併しながらそれは、単に外観的だけである。二つ以上の流派を許さないのは、一の体系に他の異質的体系の混在を許さないことである。雷を説明するにあたつて、電気の体系と神話の体系との混合折衷を許さないことである。かやうな異質的な二つの体系は互に補足しあふことも、両立することもできはしない。両者はたゞ排撃しあふのみである
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