週一度ずつ鎌倉の実験室へ通った。彼が実験室の中でどんな研究をしているかは、外見からは何もわからなかった。けれども実験は満足に進行していることだけはたしかだった。
 房子はとうとう妊娠であることがわかったので、博士は、実験のことは一切手伝わせもせず話しもしないことにきめて、専ら静養させることにした。
 しかし博士は、家庭に於ても善良な父であり夫であることに依然として変りはなかった。房子を抱擁したその同じ手で子供たちを愛撫した。房子に恋を囁いたその同じ口で夫人と談笑した。そして又世間に対し、学界に対しては、博士は模範的紳士であった。完全な二重生活を私たちは博士に見ることができた。
 十月の末のある晩、村木博士の別邸の附近にたって、鋭敏な聴覚をもった人が、よく耳をすませば、博士の邸内から、かすかに嬰児のうぶ声[#「うぶ声」に傍点]を聞きわけることができたであろう。無論房子が分娩したのである。けれどもこのことは誰にも知られずにすんだ。
 それから数日たって、雑司ヶ谷の村木博士の本邸でのこと「あなた、生理学会の秋季大会は明後日ですってね?」
 夫人は心配そうに博士に向って言った。
「そうだ、明後日だったね」
 博士は理学者的冷静さをもって答えた。
「それまでに実験はまにあうでしょうか? 今日はいつかの新聞記者が来ましてね。そのことを念を押していったのですよ」
「大丈夫間にあうつもりだ」
「こん度は大学側では、大勢の教授があなたに詰問的質問をするといって、いきごんでいるそうですわ。でもすっかり準備はおできになっているでしょうね?」
「百の報告よりも一の実物が証拠だ。私はその日は実物を公開するつもりでいる」
「まあ、ではもう実験が成功したのですか?」
 夫人はつつみきれぬよろこびをもってたずねた。
「まだ成功はせん。しかしまだ二日の余裕がある。それまでにすっかりできあがるつもりだ」
     *     *     *
 翌日早朝鎌倉へでかけた博士は、一日実験室にとじこもっていた。隣室からは、博士の忙しそうに歩きまわる足音のあいまあいまに、水道から水のほとばしり出る音、硝子器のふれあう音などが、かすかにきこえ鋭敏な鼻にはほのかな薬品の匂いさえかぐことができた。
     *     *     *
 その翌日、いよいよ大会の当日であった。恒例をやぶって××新聞の講堂にかえられた会場は定刻前から立錐の余地もなく熱心な聴衆がつめかけていた。朝野の学界の名士新聞記者は演壇の両側にいならんでいた。今日の大会は博士の報告演説だけで独占されることになっていたので、司会者の開会の辞がおわると、村木博士が割れるような拍手を浴びて登壇した。千余名の聴衆の視線は一斉に博士に注がれた。
 博士はしずかな語調で、案外に簡単に実験の経過を報告してから、「これからその嬰児を皆様に御覧に入れます」と言いながら、うしろの方へ眼くばせした。
 一人の老女が淡紅色の液体のはいった硝子盤をもって来た。中には生後まもない健康そうな嬰児が巧妙な装置で支えられて漬かっていた。
「この子供は八ヶ月でこれまでに成長しました。液の温度と栄養との関係で、子宮内で育つよりも約二ヶ月時間を短縮することができましたが、この時間は六ヶ月ぐらいまで短縮できるだろうと思っています。この子供は男の児ですが、性の決定は胎生期の手術でどうにでもなります。いまのところ一日に数回第二村木液でこの通り沐浴さしていますが、それは環境を急変させた場合の効果を懸念してです。もう一ヶ月もすれば普通の子供と同じようにして育ててゆくつもりです」
 博士は報告がすむと老女を手伝って硝子盤を奥へ運んでいった。拍手の音はしばらく鳴りもやまなかった。
 鎌倉の別邸では、内藤房子は、朝ばあやが運んで来てくれた牛乳をのんでから、うとうとしているうちに赤ん坊に乳房をふくませたままいつの間にかぐっすり熟睡してしまった。
 深い、それでいて何だか気味の悪い眠りから彼女がさめたときはもう暗くなっていた。赤ん坊はまだすやすや眠っていた。彼女は可愛さにたえぬもののように、無心な赤ん坊の額に接吻した。何だか葡萄酒の匂いがするような気がしたが彼女は別にそれには気もとめなかった。
「まあおめざめでしたか、あんまりよくお寝みでしたから、お午餐も差しあげませんで」
 と言いながら、ばあやが夕食を運んできた。
「ほほうよく眠っていますね」と言いながら博士もそのあとからはいって来て赤ん坊の顔をのぞきこんだ。そして博士は母親と子供との額に代るがわる接吻した。
     *     *     *
 それと同じ時刻に大学の生理学教室では、熱心に試験管をいじっていた阿部医学士がひとりで頓狂な叫びをあげた。
「なんのこった、第二村木液だなんて仰山な名前をつけて、こりゃただの水に葡萄酒をたらして着色しただけのもんだ」

 その翌朝村木博士は鎌倉の実験室の中で、屍体となって発見された。モルヒネ自殺であった。
「私はどうしても貴女と離れることができませんでした。それと同時に私は妻子とはなれることもできませんでした。私は世間なみの紳士としての対面と、夫として父としての義務とをはたしつつ、しかも貴女との愛を永久につづける手段を考えました。それがあの雑司ヶ谷の実験室での生活でした。しかし貴女が妊娠されたことを知ったとき、その露覚をふせぐために更に大胆な第二段の手段に訴えねばなりませんでした。人造人間の実験がそれであります。昨日は貴女に麻酔薬を用いて、老婆に頼んで、愛児を講演会場につれてゆきました。どうにか会場ではごまかすことができましたが、私の良心をごまかすことは遂にできません。世間を欺き、家庭を欺き、学問を冒涜し、最後に、恋人をすら欺かなければならなかった不徳漢にとって、残された道は死あるのみです。子供のことはよろしく御願いします」
 房子は博士の遺書を抱いて産褥の上にいつまでもいつまでも泣きくずれたのであった。



底本:「世界SF全集 第34巻 日本のSF(短篇集)古典篇」早川書房
   1971(昭和46)年4月初版発行
   1976(昭和51)年7月15日再版発行
初出:「新青年」
   1928(昭和3)年4月号
入力:田中亨吾
校正:土屋隆
2002年1月21日公開
青空文庫作成ファイル:
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