んよ。兄さんにたずねてごらん、兄さんは物識りだから」
「日本語なんか僕知らないや、百がサル[#「サル」に傍点]で日《にち》がスベ[#「スベ」に傍点]で、紅《こう》がリ[#「リ」に傍点]だろ。英語では百日ってハンドレッド・デイっていうよ」
「ハンドレッド・デイズだよ。複数だから」
「矢っ張りお父さんは偉いなあ。昨日の新聞にお父さんの写真がのってたね。内藤さんの写真と一しょに。内藤さんも随分えらいんだね」
 村木博士はいつものように、十四と十二になる長男と長女とを相手に、登校前の遊び友達になって過していた。博士は春から夏にかけては、毎朝五時に起きて、水曜日に一度大学の生理学教室へ講義に出かける以外、ふだんの日は八時から午後五時まで、自宅の邸内に設けてある実験室で過すことになっていた。ただ八月だけは、鎌倉の別邸で暮すことになっていたが、そこにも一部屋を実験室にあててあった。房子と知りあいになった場所は、この鎌倉の別邸だった。で、朝の三時間は博士は完全に家庭の父であり、昼間の九時間は、完全に研究のためにあてられていた。この日課は、正確な時計のように一度も狂ったことがなかった。ことに一ヶ月程前に、例の人造人間の実験をはじめてからは、一切の訪問客を謝絶し、実験室へは、助手の内藤女史以外は、家族の者でも出入することを厳禁していた。
「もう七時になりましたよ。学校へいっていらっしゃい」
 父子が遊んでいるところへこう言いながら村木夫人がはいって来た。夫人は三十を三つ四つ越しているのだけれど、まだ二十台に見える若さを保っていた。
「お父さん行ってまいります」
「お母さん行ってまいります」
 二人の子供は小鳥のように快活に部屋を出て行った。
「今朝もまた三人も新聞記者が来ましたよ」彼女は夫のそばに腰をかけながら言った。
「うるさいね、新聞記者なんかに何がわかるものか」
 博士はそっぽを向いたまま、ぷっと煙草の煙を吐き出してこう言った。
「でもね、そのうちの一人がこんな事を言うのですよ。先生の実験が成功したら、その子供の籍はどうなるのですなんて」
 彼女は夫の顔をはすかいに見ながら言った。博士は石像のようにだまっていた。
「ほんとうに、それはどうなるんでしょうね。妾《わたし》も承りたいわ」
 博士の眉間には縦に大きい皺がよった。しかしそれはすぐに消えて、またいつもの温顔に返った。
「学者は研究すればいいんだ。研究の結果をどうするかなんてことは実際家にまかせておけばいい。いずれ法律家が何とかきめるだろう。ただ実験につかった[#「つかった」は底本では「つかつた」と誤植]精虫は私のものだから、私は当然父親であるべきだと思うが」
「そうしますと母親がないという事になるので御座いますか」[#「御座いますか」は底本では「御座ますか」と誤植]
 夫人の顔には淋しそうな表情が浮かんだ。博士はそれに気がついて、はげますような調子で言った。
「母親はないことになる。併《しか》し、いまにもう少し科学が進んだら父親のない子もできるだろう。精虫を合成することができたら。しかし、それはたしかに近い将来にできる」
「そうなったら親子の関係は妙なものになってしまいますわね。道徳も義務もなくなって。でも、さしあたって今の法律では、誰か母親にならなければなりませんでしょう」
「最も合理的に言えば、あの実験の手伝いをして貰っている内藤さんが母親になる権利があるんだが……」
 博士は、ちらっと電光のような速さで、夫人の顔を見た。夫人の顔はそれと同じ位の速さでさっと曇った。
「少なくも法律家が私に意見を求めに来たら、私はそう主張するより外はない。今の世の中ではこれは妙に聞こえるかも知れない。お前も妙な気がするだろうと思う。しかし、この問題について法律を制定することになると、今の世の中ばかり眼中においているわけにはゆかない。こういうことが頻々と普通に行われるようになった将来の社会を予想しなくてはならん」
 科学者の妻として、夫の仕事の性質をよく理解していた夫人は、博士の説明をきいて尤《もっと》もだと思った。しかし理窟では尤《もっと》もだと思っても肚の虫がおさまらない。
「でも内藤さんには婚約の夫があるというじゃありませんか。あの方だってお困りになるでしょう。それにあの方の夫になる方だって……」
「そりゃ已むを得ん。真理のためには多少の犠牲がはらわれるのは仕方がない。電車や自動車が発明されたために車夫が職を失ったって、車夫のためには気の毒だが、人類全体のことを思えば已むを得ない。そりゃ内藤さんにも、内藤さんの夫になる人にもよく納得して貰わにゃならん」
 博士は時計を見た。八時五分前だった。博士は仕度をして実験室へ出かけて行った。しばらくすると、邸内からピアノが聞えた。ショパンの曲だった。


      4

 それから二十日ばかりたった或る日のことである。
 村木博士の邸内には、桜はもうとっくに葉になって、あちこちの庭石のかげに、紅白さまざまの変り種の躑躅が咲いていた。
 雑司ヶ谷の丘の樹々は、豊かな日光を浴びて、一つ一つの青葉が生成してゆくのが肉眼にも見えるように感じられる。こういう日は誰でも一種の自然の威圧といったものに打たれて悩ましくなるものだ。まして甘いなやみをもった青春の男女にとって、五月という季節は、何とも名状しがたい、いてもたってもいられないような、焦燥感を与える。
 婚約の夫がありながら、妻も子供もある人に、ありたけの胸のおもいを寄せるようになった内藤房子は、村木博士の実験室の中で、デスクに向って化学書を読んでいたが、眼はひとりでに窓外の青葉にうつる。心は、いつのまにか、無味乾燥な書物のページを辷《すべ》りぬけて、あらぬかたに乱れ飛ぶのであった。
 村木博士は一寸用事があるというので二日前から鎌倉へ行ってまだ帰って来ない。その留守を房子は実験室にとじこもって、化学式の暗記に専念していたのである。
 彼女は近頃特に現在の位置に不安を感じて来た。彼女は婚約の夫を愛していないのではなかった。彼女の未来の夫は彼女を信じきっていた。高名な博士のところに行儀見習かたがた研究の手伝いをしていることを、彼は誇としている位だった。「あの人が博士と妾《わたし》との関係を知ったらどうしよう?」
 彼女は自分の立っている足の下がぐらぐらするような気がした。とりわけ、彼女にとって堪えられない恐ろしさは、どうも三ヶ月程前から身体に異状がおこったことである。博士は、妊娠ではないと診断したが、二三ヶ月前に彼女を襲った症状はつわり[#「つわり」に傍点]に相違ないように思われた。それに、今に至るまでやっぱり月のものは見られないのである。
「きっとそうにちがいない。博士は妾《わたし》に心配させないために嘘をついておられるのだ。そして御自分でも、この恐ろしい事実を信じまいとして、しいて否定しようとしておられるのだ……」
 彼女は博士の冷静な態度を思い出すとはげしい憎悪を感じた。それと同時に自分が博士のたね[#「たね」に傍点]を宿していることを意識すると、博士が恋しくて恋しくてたまらないのであった。
「もしそうだとすると、妾《わたし》の身も破滅だし、博士自身も破滅だ。それに……」
 彼女は近頃の村木夫人の眼に一種の嫉妬の光りがしつこく宿っていることに気がついていた。夫人は、相変らず房子に愛想がよかったし、嫉妬らしい素振りは第三者から見ると微塵もなかったのであるが、当人にとっては、夫人の態度がやさしければやさしいだけ、よけいと何かしら強烈な光線で射られているような気がするのである。心の底まで見すかされているような気がして、鷲の前へ出た小鳥のようにいすくまって、まともに相手の顔を見ることすらもできぬのである。
 すべての事情が彼女にとっては不愉快で恐ろしかった。しかし今更らどうにもできないように思われた。博士に相談しても彼は簡単に事実を打ち消すばかりで取りつく島がない。
「博士はほんとうに妾《わたし》を愛していて下さるのだろうか? もし夫人か妾《わたし》かどっちかを、すてなければならぬ場合になったら、どうなさるだろう?」
 彼女はこの疑問に対して全く自信をもっていなかった。勿論、子供もあり、永年つれそって来た、そして容貌からいっても自分以上に美しい、少なくともととのった夫人に対して彼女は太刀討ちができないように思った。彼女の相貌は急にけわしくなって来た。女には生理的に、突然気持ちが一変して、消極のどん底から此の上ない積極的な気持ちへ宙返りするときがある。いまの彼女がちょうどそれだ。
「そうだ、飽くまでも競争しよう。完全にすっかり博士を自分だけのものにして、しまわなければならぬ。名誉も家も夫人も子供も、そして生命の次に大事な研究もすべてをすてて妾《わたし》の懐へ飛びこませなくてはならぬ……」
「先生はいつかこんなことを仰言った……今度の実験は私の生命と名誉とをかけての実験ですから、万一しくじったら私は何もかも破滅なんだから……」
 彼女は血走った眼で隣室へ通ずる扉をちらりと見た。血を見た猛獣のように彼女は起《た》ちあがった。デスクの曳出《ひきだ》しをあけて彼女は狂気のように何物かをさがしだした。彼女の手には鍵たばが握られていた。あまりはげしい昂奮に理性を失った彼女は、博士の大事な実験を滅茶滅茶にして博士を世間へ顔向けのできぬようにし、どこか地球の果てというようなところへ行って自分と二人で恋愛三昧の生活を送ろうと考えたのである。――世界をも恋故に――クレオパトラの言葉が彼女には絶対者の暗示のように思い出された。
 意外にも一番はじめに試みた鍵がうまく鍵穴にはいった。扉は拍子[#「拍子」は底本では「抜子」と誤植]抜けのする程易々とあいた。実際、扉を叩き破っても位の権幕であった彼女には少なからず意外であった。だがそれよりも意外であったのは、部屋の中には見なれたデスクが一台と椅子が一脚、デスクの上には何かしら独逸語の書物があけてあって、その前に大判の洋罫紙に何か独逸語で書きかけたのがあるきりで、その外には何一つ見つからなかったことである。あまりのことに彼女は一時に昂奮がさめて、がっかりしてしまった。どんな精巧な仕掛がしてあることかと期待していた矢先に、見出されたのは、ありふれた机と椅子と本が一冊っきりである。
 彼女は、亡者のようにふらふらしながら、天井を見上げたり床や壁を押したり、踏んだり叩いたりして見た。けれども遂に何物をも発見することができなかった。
 彼女は綿のように疲れてしまった。そしてもとの部屋へかえって机によりかかったまま前後不覚に眠ってしまった。

 彼女が襟首に柔かい温かいものの触れるのを感じて眼覚めたとき彼女の眼は村木博士がうしろに立って彼女に接吻しているのを見出した。
「まあいつのまに……」彼女はあわてていずまいをなおして、ほつれ毛をかき上げた。
「たった今帰ったばかりですよ。実はこん度実験室を鎌倉の方へ移すことにしましてね。隣の部屋の取り片附けは出発の前の晩に、みんな寝しずまってからやりました。あなたにも家族にも秘密でね。新聞記者などにかぎつけられちゃうるさいと思ったものですからね。なあに、荷物はトランク一つにまとまりましたよ。今のうちでないと大きくなっちゃ持ち運びが大変ですからね。液の振盪を防ぐためには随分骨を折りましたが、それでも長い道中なのでどうかと思いましたが、幸い無事に向うのラボラトリーへ移しましたよ。で貴女も明日からあちらのラボラトリーで手伝っていただくことにしました。私は一週一度発育状態をしらべにゆけばよいのです。あちらには、ばあやを一人つけておきます。貴女の仕事はその都度お願いすることにしますが、あちらの実験室へは絶対にはいれませんから、そのおつもりでね。さあそれでは家の方へちょっと……」と博士は一人でしゃべりながら、相手が何もいわないうちに、彼女の二つの眼へかわるがわるキッスして、軽快に実験室を出て行った。


      5

 それから約六ヶ月の間、村木博士は正確に一
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