」
彼女は近頃の村木夫人の眼に一種の嫉妬の光りがしつこく宿っていることに気がついていた。夫人は、相変らず房子に愛想がよかったし、嫉妬らしい素振りは第三者から見ると微塵もなかったのであるが、当人にとっては、夫人の態度がやさしければやさしいだけ、よけいと何かしら強烈な光線で射られているような気がするのである。心の底まで見すかされているような気がして、鷲の前へ出た小鳥のようにいすくまって、まともに相手の顔を見ることすらもできぬのである。
すべての事情が彼女にとっては不愉快で恐ろしかった。しかし今更らどうにもできないように思われた。博士に相談しても彼は簡単に事実を打ち消すばかりで取りつく島がない。
「博士はほんとうに妾《わたし》を愛していて下さるのだろうか? もし夫人か妾《わたし》かどっちかを、すてなければならぬ場合になったら、どうなさるだろう?」
彼女はこの疑問に対して全く自信をもっていなかった。勿論、子供もあり、永年つれそって来た、そして容貌からいっても自分以上に美しい、少なくともととのった夫人に対して彼女は太刀討ちができないように思った。彼女の相貌は急にけわしくなって来た。女には生理的に、突然気持ちが一変して、消極のどん底から此の上ない積極的な気持ちへ宙返りするときがある。いまの彼女がちょうどそれだ。
「そうだ、飽くまでも競争しよう。完全にすっかり博士を自分だけのものにして、しまわなければならぬ。名誉も家も夫人も子供も、そして生命の次に大事な研究もすべてをすてて妾《わたし》の懐へ飛びこませなくてはならぬ……」
「先生はいつかこんなことを仰言った……今度の実験は私の生命と名誉とをかけての実験ですから、万一しくじったら私は何もかも破滅なんだから……」
彼女は血走った眼で隣室へ通ずる扉をちらりと見た。血を見た猛獣のように彼女は起《た》ちあがった。デスクの曳出《ひきだ》しをあけて彼女は狂気のように何物かをさがしだした。彼女の手には鍵たばが握られていた。あまりはげしい昂奮に理性を失った彼女は、博士の大事な実験を滅茶滅茶にして博士を世間へ顔向けのできぬようにし、どこか地球の果てというようなところへ行って自分と二人で恋愛三昧の生活を送ろうと考えたのである。――世界をも恋故に――クレオパトラの言葉が彼女には絶対者の暗示のように思い出された。
意外にも一番はじめに試みた鍵がう
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