賞揚するなら、マルクス主義者はそこに退場して、たゞの文芸批評家と交替したと解釈しなければならぬ。
私の説明はあまりに機械的であり、非実際的であつたことを私は知つてゐる。だが、それは、私が原則的な理論を説明したのだからに外ならぬ。原則を説明する場合には、最も典型的な、従つて最も極端な実例をあげるのが理解に最も都合がよいのだ。
最後に私は、私自身の、所謂「懐疑的」立場を便利上逐条的に明かにして大方の教へを乞ふことにしよう。特に私の最も尊敬する蔵原惟人、勝本清一郎の両氏に私は教へを乞ひたいのだ。
先づ第一に現在のマルクス主義文学理論に対して、懐疑的態度をとつてゐるといふ事実を告白しておく。(だが念のためにことはつておくが、私は何から何まで真理を疑ひたがるスケプチツクではないのである。懐疑家といふ言葉が、スケプチツクの訳語になつてゐるので、誤解されることを恐れてこのことを一言しておくのである。)
第二に、私はマルクス主義の一般理論に対しては私の知るかぎりでは(それは非常に狭いのであるが)懐疑的態度をとつてゐるわけではない。私は、マルクス主義と文学作品の評価との関係の問題に対して懐疑的態度をとつてゐるのである。こゝでも私は一言しておきたい。といふのはかやうな新しい、未解決な問題に対して疑ひをもつことは、一般に理論家にとつて已むを得ないことであり、それは悪いことではなくて、却つて望ましいことであり、反対にあまりにはやく不完全なオーソドツクスを定立することこそ避くべきことであると私は思ふのだ。
第三に私は前に長々しく述べきたつた政治的価値と芸術的価値との二元論を脱することができない。尤もこゝでもことはつておかねばならぬことは、「芸術的価値」といふ言葉であるが、これを私は神秘的な、先験的なものだとは解してはゐない。それは社会的に決定されるものだと信じてゐる。たゞマルクス主義イデオロギイや、政治闘争と直接の関係をもたぬと信ずるまでゞある。
第四に、それにも拘はらず、私は文芸作品を批評するにあたつて、私の解釈するやうな意味の純然たる政治的評価にのみたよるわけにはゆかない。このことはマルクス主義の一般的理論の真実性を認めた上でのことである。マルクス主義の真実性を認めながら、私は非マルクス主義作品のもつ魅力にも打たれる。そしてその魅力に打たれる以上はそれをありのまゝに告白するよ
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