合理化されるのである。
この關係は、ルナチャルスキーの場合ですら、粉飾され、婉曲に言いあらわされ過ぎていると私は思うのであるが、若しこの關係が明白になれば、プロレタリア文學の存在理由が少しでも薄弱になると思うなら、それは甚だしい誤解である。というのは非常に簡單な理由からである。即ち、私たちは、階級と階級とが、抑壓者と被抑壓者という形で對立している社會をそのままにしておいて文學をたのしむよりも、一時文學そのものの發達には、多少の障碍となつても、階級對立を絶滅することを欲するからである。他の一切を犧牲にしても、切迫した政治的必要を滿すことを欲するからである。このことはブルジョア文學の發生の場合にも完全にあてはまる。ブルジョア階級が、その覇權《はけん》へむかつて進出したときの行進曲として、政治的文學をもつたこと、そしてブルジョア革命のまつ最中には、歴史的に見れば一時文學の衰頽期を現出したこと等が、それを語つている。ブルジョア文學は、愛と平和との中に、靜かな朗らかなクラリオネットの音の中に發育したものと思うのは大間違いで、血と鬪いとの中から戰いとられたものである。
そして勃興期のブルジョア階級によつて、血によつて戰いとられた文學が、國民文學として、成熟期のブルジョア階級の手で、まるで、平和と愛とのシムボルのように祭られているのである。ゲエテ、シルレル、ユゴオ等々がそれである。勃興期のブルジョアジーは、一つの階級でなくて人類を代表していた。その故にこの時期の文學は人類の文學となり、國民の文學となり得たのである。というのはプロレタリアが、階級としてはつきりと對立して來たのは、そしてブルジョアジーがその階級的性質を露骨に示して來たのは、それ以後の出來事だつたからである。この意味に於いて、勃興期のブルジョア文學は、ブルジョアジーによりも寧ろより多くプロレタリアに屬している。(メーリンクのレッシング論はこの點で私の主張を裏づけるであろう。)序《つい》でに一言しておけば、日本の國民は國民的クラシックの名に値いするような作家や作品をもつておらぬ。紅葉、露伴、逍遥、蘆花、漱石、獨歩――これ等の作家のうちで、これこそ近代日本を代表する作家であるといえる人はない。それは偶然日本に天才的作家が現われなかつたことにもよるであろうが、いま一つは、日本のブルジョアジーが十分革命的階級としての鬪爭を
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