作品の藝術的價値が、一夜のうちに消えてなくなつてしまうであろうか?
否! と私は答える。また誰だつてそう答えざるを得ないと私は考える。チェホフの作品でなしに、たとえば、ボオドレエル若しくはエドガア・アラン・ポオの作品を例にとろう。これ等の人々の作品は、プロレタリアの勝利に貢獻するような何物をももつていないことは誰しも異存のないところである。それどころか、これ等の人々の作品には、一般に人類の幸福をおしすすめる拍車となるようなものすら何一つ見當らぬ。それにも拘らず、これ等の作家は、藝術的に何等價値のない作家であるといわれるだろうか? これ等の作家によつて描かれた頽廢性《たいはいせい》、不健康性はプロレタリアの鬪爭のためには無論のこと、一般に人類の向上進歩のためにすら反效果をもつものであるのに、私たちが、それ等の作品に、多かれ少なかれ藝術的價値を認めるのは何故であろうか?
ここに一元論をもつては解釋しがたい謎がある。
性急な讀者は、私がここで、藝術作品の政治的價値を否定、若しくは減弱しようとする意圖を抱いているために、こういう議論をするのだと考えるかも知れない。ところが、私の意圖はその反對である。私は文學作品の政治的價値を正しく認識するために、そしてその重要性を立證するために、先ずこれを藝術的價値から引きはなすのである。若しこれを一しよくたにして「社會的價値」という風呂敷の中にひつくるめてしまうことができるならば、プロレタリア文學とかマルクス主義文學とかいうものの特殊性は消滅してしまわねばならぬ。
プロレタリア文學若しくはその別名或はその一部分としてのマルクス主義文學は、政治的規定を與えられた文學である。政治のヘゲモニイのもとにたつ文學である。この事實はあいまいにごまかしたり、糊塗したりしてはならない。藝術や文學から出發して、マルクス主義文學、プロレタリア文學を合理化しようとする企圖はきれいさつぱりと抛棄されねばならぬ。マルクス主義は藝術や文學を社會の現象として解釋することはできるが、藝術や文學はマルクス主義から命令され規定されて、政治的鬪爭の用具となる約束を少しももつていないからである。プロレタリア文學若しくはマルクス主義文學のみがそれをもつているに過ぎないのである。プロレタリア文學は藝術の立場ではなくて政治の立場から、文學論からではなくて政治論から出發してのみ
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