。このことは、大衆が、ハツピー・エンデイングの物語を喜ぶことによりて説明される。人々は実生活に於いて自己の努力で、勝利のクライマツクスを味はふことができないものだから、実生活に幻滅して、小説に慰安を求め、暗々裡に、自ら作中の主人公若しくは女主人公のつもりになつて、一時的な、幻想的な満足を感じようとするのである。近代の舞台に上演されるわざとらしいハツピー・エンデイングの戲曲も、それと同様の目的を果してゐるのである。』
[#ここで字下げ終わり]
 この言葉は、生一本な芸術至上主義者を憤慨させるに足るであらう。これから小説家としてのキヤリーヤを一歩ふみ出さうとする若い人たちは、かういふ見解に対しては、多かれ少なかれ失望を感ずるであらう。だが、私はこれこそ事実であり、これこそ読者大衆の小説に対する最も普遍的な態度であらうと思ふ。それだからこそ、芸術的価値に於いては如何[#「如何」に「ママ」の注記]はしいと思はれる大衆文学の或る作品が、屡々読書界を席捲するやうな現象を起すのである。
 或る小説が、文学としてすぐれた作品であるといふことゝ、その作品がよく売れるといふこととは、往々にしてそれが一致する場合があるにしても、全く別の原則によりて支配されてゐる。そして最もよく売れるといふことを目的として書かれた小説が、意識的な大衆文学を形成するのであり、従つて、大衆文学に於いては、よく売れるといふこと、即ち、商業的価値が第一義的に置かれる。商業的価値を無視して、現代では大衆文学といふ特殊な存在を理解することはできない。尤も大衆文学に限らず、近代の小説は、多かれ少なかれ、商業的価値を眼中において書かれる場合が多く、凡ての小説が大衆文学化しつゝあることは事実であるが、このことは、大衆文学の特質を抹消するものではなく、却つて、大衆文学の勝利、従つて、文学作品の商品化を意味するのである。
 だが、商業的価値は、商業といふものゝ本来の性質として、甚しく投機的であり、不安定であつて、一般的にこれを規定することは甚だ困難である。多く売らうと企画された作品が必らずしも多く売れるとは限らず、売れ行を危んで書かれ、出版された小説が、意想外な売行を示して、出版者をも作者をも驚かす場合が甚だ多い。マイケル・ジヨセフも言つてゐるやうに「少数の運のよい例外を除いては、何人も、故意に、良く売れる書物をこしらへること
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