であることは認めたが、マルクス主義文学の場合には、政治的価値が優位を占めなければならぬと言つたまでゞある。
 この関係は、大衆文学に於ける、芸術的価値と商業的価値との場合にも全く同じである。この二つの価値は互に排撃しあふものではないが、大衆文学の作品の場合には、後者が前者よりも重要視され、後者を十分に発揮するためには前者は幾分犠牲にされることもある。尤もマルクス主義文学の場合にも、大衆文学の場合にも、二つの価値が、それ/″\最高度に到達してゐる場合、即ち、前の場合では芸術的にもすぐれてゐながら、政治的目的にもかなひ、後者の場合には、芸術的にもすぐれてゐながら、大衆性をももつてゐる場合が、最も完全な、最も望ましい場合であるが、その場合でも私たちは、二つの価値構成要素を矢張り分析し得るのである。

            二

 近代文学に於いて最も大衆性をもつてゐるものは小説である。これは最近に於ける各国の出版物の中で、発行部数に於いても、書物の数に於いても嶄然と他を抜いてゐるものは小説であるといふ一事がよく証明してゐる。
 では小説は何故かくも多数の人々に読まれるか? マイケル・ジヨセフといふ人は The Commercial Side of Literature といふ書物の中でこの問ひに対して次のやうに答へてゐる。序でに断つておくが、この書物は、卑俗な、取るに足らぬ書物ではあるが、そのために却つて多くの暗示的な問題を蔵してゐる。
 彼は言ふ。
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『或る読者は漠然と「自分はたゞ慰さみに読むのだ」と答へるであらう。もう少し教養のある、率直な人は、小説を読むと、実生活のひどい単調と冷酷無常な現実とから一時的に逃避できるから、一種の麻酔剤として、精神的刺戟として小説を読むのだと答へるであらう。又極く少数の人は、恐らく無意識的にでもあらうが、小説の中から教訓を抽き出さうとするであらう。或る者は彼等の知的眼界を広め、経験を富ますために小説を読み、他の者は小説から、観察と批評の楽しみをひき出すであらう。又会話のたね[#「たね」に傍点]を仕入れるために一流の流行作品を読む人も少くないであらう。だが、根本的には、小説に対する要求は、一般に潜在意識的にではあるが、つらい、絶望的な実生活が与へることのできないイリユージヨンを楽しみたいといふ慾望によつて鼓吹される
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